2013年5月16日木曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(4)

第八章は「諸芸術の上演」と題されている。私は第九章の「文化上演」には、芸術的上演と非芸術的上演の区別という問題にしか興味がないので、読書ノートもようやく最後になる。この本に関して自分で読める内容は読み終えたと思うので、土曜日は他の人の意見を聞くことに専念しよう。Tsudaる感じであとでブログにアップしても良いかも。

他のあらゆる諸芸術と異なる演劇の特徴として、彼女は「演劇[が]それらの芸術を自分の中で一つのものにし、自分の目的のために利用することができる」(232)という点を挙げる。だからこそ演劇学は常に学際的だ.

この主張は常識的にもっともだ。お芝居の中には音楽も使われるし背景画もあるし、様々な装置や小道具もある。つまり三次元芸術も用いられる。厳密には、芸術としての料理は演劇にはおそらく用いられることはないし、ランドスケープ・アートも難しいだろうが、そこまで言うのは言いがかりだ。彼女が言うのは演劇の中に利用され得ないジャンルはない、ということであって、演劇の中に利用され得ない作品はない、ということではない。そしてこの場合のジャンルは、かなり広く理解すべきだ。細密画は演劇に利用できない(お米に書いた書も)けれど、細密画も絵画であり、絵画は利用可能だ。むしろ、問うべきは「それは演劇を他のあらゆる諸芸術と異なったものにするのだろうか?」という点だ。どのような芸術ジャンルであっても他のどの芸術ジャンルをその一部として利用することが出来るのではないか?音楽と絵画の総合芸術は必ずしも演劇ではない。

諸芸術の上演が必ずしも演劇であろうとなかろうと、演劇が歴史的に諸芸術の上演への傾向を内在し続けてきたことは確かだ。フィッシャー・リヒテはそれを二つの極によって分析する。
もし階層化を全く行わずに、あらゆる芸術を平等に演劇上演に関与させようと試みるならば、それは多様な芸術が緊密に相互作用するという結果をもたらすか、さもなければ、平等という点は同じでも、【多様な芸術が】見たところ全く関連なく併存する状態をもたらすかのどちらかである。(略)もちろんこれは両極端であり、それらの中間に多くの別の実現形態がある。(233)

前者がワーグナーであり、後者がケージだ。ワーグナーの総合芸術論は有名でもありフィッシャー・リヒテの紹介も常識的なのでパスして、ケージに関しては1952年の『題名のないイヴェント』が挙げられている。これは「ケージが1952年に(略)ピアノストのデイヴィッド・チューダー、作曲家のジェイ・ワット、画家のロバート・ラウシェンバーグ、舞踊家のマース・カニンガム、そして詩人のチャールズ・オルセンおよびメアリー・キャロライン・リチャーズとともに、ブラックマウンテン・カレッジの食堂で行ったもの」(236)で、各アーティストは時間指示だけを与えられ、好き勝手にその時間を満たす。カニンガム(この表記は嬉しい)カンパニーの売りの一つにもなった「コラボレーション」だ。フィッシャー・リヒテのこの上演の記述は、並列的で、それぞれの間に関係がなかったことを示している。ちょっと長いが引用。
ケージは、黒い背広にネクタイを締め、脚立に乗って、音楽と善についてのテクスト、それにマイスター・エックハルトの文集からの抜粋を読み上げた、続いてケージは、「ラジオ・コンポジション」を演奏した。それと同時にラウシェンバーグは拡声器付きの手回し蓄音機で古レコードを流した。その脇では犬が—ドイツのグラモフォンのレコードジャケットそのままの姿で—座っていた。デイヴィッド・チューダーは「プリペアド・ピアノ」を操作した。その後彼は、バケツから水を別のバケツに注ぐということを始めた。その間、オルセンとリチャーズはある時は観客席の真ん中で、ある時は短い方の側壁に立てかけられた梯子から、自分たちの詩を朗読した。カニンガムは通路で、また観客席を通り抜けながら、他のダンサーらとともに踊った。それを、今やすっかり混乱した犬が吠えながら追いかけた。ラウシェンバーグは、天井および長い方の側壁の一つに抽象的なスライド画像(これは二枚のガラス板の間に着色ゼラチンを入れ摺り合わせて作りだしたもの)を投射した。また、断片的な映画も投射した。それは最初は食堂のコックを映し出したものであり、その後、映像が天井から次第にもう一つの長い方の側壁に移動するにつれ、落日を映し出すものとなった。空間の一隅では作曲家のジェイ・ワットが、観客をいささかエキゾチックな気分に誘う様々な楽器を演奏していた。四人の白い服を着た若者が観客たちのカップにコーヒーを注ぎ—それも、彼らがカップを灰皿に用いていようがお構いなく—それで上演は終わった。

この上演では、多様な芸術の出会いを通じて、それぞれのメディア性と記号性が刺激を受けたことに疑いの余地はない。
<脱線>フィッシャー・リヒテが九歳の時に行われたこの上演を彼女が観て分析したとは思えないが、出典は欠けている。この段落は歴史記述からの逸脱を殆ど示さない(「すっかり混乱した」「エキゾチックな気分にさそう」はやや怪しい)が、次の段落で次のように言われるとき、語られているのは三人称現象学そのものだ。
観客の注意力は、それらの人工物としての性格ないしテクストとしての性格からは逸らされて、それらによって何が行われたということ(略)に向けられた。観客たちは(略)には専念できず、その代わりに、(略)を目で追わねばならなかった。

……ここではどの観客も自分自身の上演を作り出さねばならなかったため、そこから発した美的経験もまた、全く特別なものだった。 (238) 
これが悪い、というのではなく、歴史記述にこれが許されるなら、上演分析と歴史記述の間の違いは人称使用以外にあるのかしら。</脱線>

これら二つの例を極にして、諸芸術をそのなかで上演することが演劇の特徴だとフィッシャー・リヒテは主張する。でも、ケージのイヴェントは、語の有益などんな意味で「演劇」なんだろう?それを「演劇」と呼ぶことも、またやや極端だが、「パフォーマンス」と呼ぶことも、ラウシェンバーグの寄与を矮小化するだろう。スライド映像は彼が自ら投射する必要はなかったし、オルセンとリチャーズだってスピーカーでも構わない。それはハプニングとかイヴェントとか言うのが一番相応しいのではないだろうか。

もちろん、彼女は演劇概念をここで拡張し、インターアートとして理解しているのだけれど、そのとき、演劇という比喩は過ち導くものになる。全てのインターアートが演劇ではないからだ。特定の場所、例えば公園の木立に置かれた自然木のインスタレーションの中に腰掛けてサウンドアートを聞くとき、私たちはインターアートの経験をしている(e.g. Janet Cardiff & George Bures Miller for a thousand years (2012))。しかし、それはパフォーマーとの肉体の共在を含まないので演劇ではないしパフォーマンスでも多分ないだろう。「演劇」を学ぶとき、演劇のインターアート性を理解することは、とりわけ現代においては重要だ。でもそれは他の芸術でも変わらない。インターアートの経験を理解するためには、「演劇」概念へのこだわりはむしろ邪魔になるのではないか。それが演劇的である場合にすら、それを演劇としてとらえることは有意義ではないだろう。

だから、ボイスのあれこれのアクションが上演概念の定義に合致するかしないかの議論(243)はボイスの理解にとっては重要ではない。また、1990年代以後の造形芸術に上演としての性格を持つものが増えたかどうかも、多くの場合重要ではない。これらの作品の多くにおいて重要なのは上演と共有するある性質、つまりそれが物質的な痕跡を残さない、というコンセプチュアルな性質なのであって、肉体の共在を前提とする上演的性質ではない。彼女の挙げている例はそれでも、とても面白いので書き写す。ティノ・セーガルの作品についてだ。
来場者が一人あるいは何人かで空間に足を踏み入れると、さっそく予めそこにいた美術館の守衛か、その瞬間に初めてこの空間に現れた解釈者が、活動し始める。彼らは、「これはとても現代的です」(ヴェネツィア・ビエンナーレ、2005年)あるいは「あのオブジェのこのオブジェ」(ケルン、2004年あるいはロンドン2004/5年)といった文を反復し、その際、極めて多様な動作を行なった。(247-8)
この箇所に驚いたのは横浜トリエンナーレ2011年で、同じような経験をしたからだ。本会場の通路脇に大きな金属製の白っぽいパネルが展示されていて、その前で職員の女性がずっと「これは芸術作品でございますのでお触れにならないようにお願いいたします」と繰り返し注意していて、ややこしい現代芸術の展覧会の担当者も大変だなぁ、と苦笑したのだけれど、それも含めて作品だとしたら……思い出すほど、そう考える方が理にかなっているような気がする。1951年のラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング」からまる六十年、何の工夫もなく同じようなことをやる筈はないわな。

こうした話題になるとはやりの「インターメディア」とか「ハイブリッド性」とかの話になるけれど、そこでレッシングの『ラオコーン』を紐解くのがやはりドイツの人だ。わりと当たり前のことを言っているのでパス。フィッシャー・リヒテにとって、「インターメディア」は重要だがハイブリッド概念は「例えば統一性の概念への対抗概念として理解されるなら」有意義だが、「ハイブリッドの概念の利用はしばしば存在論化されるという危険をはらんでいる」(259)。まあそうですね。

<脱線>「グループのメンバーは、『イリアス』の1800行の韻文を、交代で中断なく22時間以内に朗読した」一桁誤記。18000行</脱線>

2 件のコメント:

北野研究室 さんのコメント...

こんだけ予習したのに、残念なことに、西洋比較の合評会に急用で行けなくなった。もし改版があるとしたら、青字の訳に関するところは活かして下されば幸いです。
全体としては、分かりにくいところが殆どなく、良い訳だと思います。

北野研究室 さんのコメント...

残念ながら、ヨコトリ2011の職員の女性の注意は作品の一部ではなかったようです。作品は嵯峨篤(さが・あつし)のStill White - Corridorというものでした。これを書いてから気になっていろいろ調べてようやく分かった。