2013年12月28日土曜日

Mac版Word2011で傍点をつける(備忘)

Mac版のMicrosoft Word 2011で傍点をつけるショートカットの作成。
上のメニューのツールから「ショートカットキーのユーザー設定」を選ぶ。
・の傍点だと「分類」→「すべてのコマンド」から「コマンド」DotAccentを選ぶ。
、の傍点だと、同様にCommaAccentを選ぶ。
適当にショートカットキーを設定。(私は、シフト+リンゴ+D、もともと二重下線のショートカットキーだったみたい。二重下線使わないし…)

リンゴ+Dから
ショートカットキーの設定
いちいち、選択して「書式」から「フォント」を選んで(あるいはリンゴ+Dで)傍点を設定ってのより数等楽。ショートカットキーを押してから文字入力をすると、その文字に傍点がつく。同じショートカットキーで解除。

2013年12月13日金曜日

低品質のPDFをきれいにする(欧文の場合)

持っている洋書をほぼ自炊しPDF化したのだけれど(三年がかりくらい)、初めの頃は、「重いのは嫌だ」と考え、最終的に解像度を落としてOCRしたので、結構文字がギザギザのファイルで我慢していた。実際iPadやパソコンで読んでいると気になるし頭が痛い。この頃はFineReader Proを使っていて、この場合画像の下のレイヤーにテキストを埋め込むので、文字がベクトルデータになっておらず、ギザギザは直らない。おまけに、ノートやハイライトをたくさん入れていたりして、どうしようかと悩んでいた(印刷してからスキャンしなおすにもハイライトが邪魔だし、まあ面倒くさすぎる)。再OCRかけるにも本はもう裁断しているし…。
で、次の順序で解決。Adobe AcrobatとFineReader Proの両方を使う。
(1) Acrobatの「ツール」→「保護」→「すべての非表示情報を削除」を使って、ノートやハイライトをすべて削除して新規保存。
(2) (1)で出来たPDFファイルをFineReader Proで読み込み、テキスト認識させた上で、画像のみのPDFとして書き出す。
(3) (2)で出来たPDFファイルをAcrobatの「テキスト認識」を使ってクリアスキャンで認識する。
本当は(1)で出来たファイルは画像のみのPDFファイルになっていて、(2)のプロセスは不要なはずなのだけれど、なぜか(1)からすぐに(3)に移ろうとすると、「このPDFにはすでにテキストが含まれており、純粋な画像ファイルではありません」と言われ出来ないので、別のソフトで純粋な画像PDFにする必要がある。ノートやハイライトのないPDFなら、(1)の作業は省略して二手間だけ。テキスト認識したPDFでも普通にFineReaderで読み込める。FineReader Proには、スキャンした書類を保存するときに「ページ画像のみ」という謎のオプションがあるので便利だ。なぜか一旦テキスト認識をさせないとこのオプションで保存できないのだけれど。ファイルサイズは、処理前が4.5MB、処理後が3.5MBで、クリアスキャンのおかげでかえって小さくなった。時間はある程度かかるけれど、別についていなければならないわけではない。パソコンが仕事しているだけだし。

同じ問題でお悩みの人に…
(いるのかそんな奴)


処理前
処理後



2013年11月30日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」8

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の翻訳の検討・訂正もようやく最後の2節まで来た。
16〜17節はやっとゲーアの評価らしきものに出会う。
16
完全な遵守という条件に適う、ということの問題としてよく知られている含意は、どんなに退屈な演奏でも、ミスがない限り、記譜上の要件を満足させるという点だ。(121)」逆にどんな優れた演奏でも一つでもミスがあれば作品の演奏にならない。作品の同一性が保持されるべきならばそうならざるを得ないとG。
一つの音符だけが違う演奏は同じ作品のインスタンスだという素朴に見える原理は、同一性の遷移を考えると、どんな演奏でも同じ作品の演奏になるという帰結を生み出す危険がある。少しでも逸脱を認めると作品保持と楽譜保持の保証は失われる。一つの音符の省略や追加を続けることで…ベートーヴェンの第五交響曲から「三匹の目の見えないネズミ」にたどり着くことが出来るからだ。(G186-7) (122)(「どんな演奏でも同じ作品の演奏になる」の前に訳者補足で[同じ楽譜を使用している限り]をつけているのは無理解。そんな意味ではない。)
楽譜は作品を構成するものすべてを特定し、演奏は楽譜の記譜上の特定のすべてに完全に従わねばならない。 これはありふれた連鎖式問題(あるいは積み重ね問題)a=b, b=c, c=dならばa=dという問題、塵を積み重ねても山にはならない(いつまで、どこまで?)という問題。滑りやすい坂slippy slopeの問題でもあるか。原訳では「三段論法的問題」!)。「楽譜だけに頼る場合、一つの作品の上演に幾つの間違いが許されるかをどのような基準で決定できるだろうか?
「禿」になるには何本の毛が抜けねばならないのか?このサウンドイベントは作品演奏ではないと言われるまえに何カ所の間違った音符を弾けるか。「同じクラスに属する二つの演奏は、たとえ最小限の違いはあるとしても同じように個別化されているという観念は却けねばならない。」そうでないと遷移性のゆえに、ふさふさでも「禿」だ、第五は「三匹の…」だという結論しなければならなくなる。
髪の毛と違い演奏のすべての部分は互いに関連し合っている。演奏や作品で基本単位は一個一個の音ではなく隔たりのある構造、リズムやハーモニーのゲシュタルト、旋律だろう。「より複合的な部分の同一性が保たれれば、一つ一つの音符の間違いは容認できる。旋律のゲシュタルトが認識出来る限り、音符が一つや二つ間違ってても構わない」(123)(ゲシュタルトという言葉は普通の心理学用語で「外郭的音型」(って言葉あるのか。音楽学は複雑だ)ではない。)
この提案の問題。(1)ゲシュタルト認知は外延主義にあわないので、外延を諦め複合単位の遵守だけを語るべき。(2)連鎖式問題のレベルが高くなるだけ。ある旋律をミスで弾かなかったとして、演奏の同一性は保持されるか? それに答えられたとしても、メロディの同一性は部分に頼らずに説明できるのか。「旋律を例化するために我々はその原子的部分のそれぞれを例化せねばならないのではないか?(原子的部分とはいっこいっこの音符のこと。原訳を挙げておく「旋律の事例を挙げるには、その原子レヴェルでの構成要素の事例付けをも必要とななってこないだろうか?」えっと、「旋律を例化する」とは、メロディを演奏することです。)

間違った音符の数を数える量的モデルでは、完全な遵守は一番満足のゆく条件になろう。(complianceはこれまで「したがうこと」で訳してたけれど「遵守」も良いと思った。ビジネス用語でもそういう訳語もあったし。遅まきながら「遵守」も取り入れ。)これは正しい結論なの?「遵守率は80パーセントにしよう、といえばグッドマンの理論に影響を与えるのだろうか。このレベルのフレクシビリティないし間違いマージンを認めておけば、いろんな演奏の一つ一つを所与の作品の演奏として個別化できるだろうか?でもなぜこの特定のパーセントであって他のでないのかは、明らかではない。そして恣意的に見えるこの選択の理論的な満足度は低くなるだろう。グッドマンが完全な遵守という条件を採用するには、遷移問題以外にも理由が隠れているかもしれないのだ。」
(要約:音符の完全な遵守というグッドマンの要求は、一個でも違う音符を弾いたら同じ作品の演奏でなくなるという帰結を生みだし、それをさけると「同一性の遷移」問題を引き起こすので、ゲーアは二つの可能性を提示する。第一は、基本単位を音符ではなくメロディなどのゲシュタルトにしたら?というもの。外延主義とゲシュタルト概念はあわないので外延主義を捨てるとしても、「遷移」問題はメロディでも生じるし、メロディの同一性は音符の同一性で保証するしかないのでは?という問題がある。第二は、量的モデル(例えば音符遵守率80%)はどうか?ってのだけれど、特定の量にこだわる理由がない。どちらもいまいち。)

17
グッドマンは「曖昧な対象」へのコミットを避けたかったのかも。ネイサン・サーモン曰く〈連鎖式による議論は曖昧さという現象に混乱を引き起こす〉。「直感的には、「作品の演奏」という概念は、そこに属する対象が(それを構成する)性質が厳密に共通であるということを共有なくても良いようなものであって欲しいと我々は望む。所与の作品の複数の演奏が全く同じ(構成的な)性質を結局は示さなくても、演奏はそれでも、演奏が例化しようと意図し、例化していると認知している作品のゆえに、同じ作品の演奏として同一性を認められるのだ。プラトニズムに傾く人は、固定した不変の性質集合を持つのは作品だと論じることが出来よう。演奏はその不完全な近似ないしコピーだと。(124)」ウォルターストーフなら、音楽作品は〈内在する本質的な性質に関して不変〉。
ここには前批判的直観。作曲者が厳密に特定した産物としての作品。「作品の構造的(また可能な限り美的)性質の特定に関する作曲者の決定は一般に尊重される。それでも、演奏は完全であると期待されていない(奏者は完全にしようと努力するのだけれど)。なぜなら、鑑賞者が作品それ自体に完全で、決定され、理想化された観念を持っているならば、演奏の不完全性を判定し無視することすら出来るからだ。」(文同士のつながりがきちんと訳されていないので、細部の間違いはあまりないのに理解出来ない訳になっている。)
グッドマンは意図と認知の条件を認められず、外延主義にコミット。演奏の曖昧さと作品の完全性の両方を同時に支持できなかった。「作品は存在論的に演奏に還元されるからだ。作品とは楽譜を遵守する演奏に他ならないのだ。」反直感的な二つの選択肢しか残っていない。「作品とその演奏の両方に一定の曖昧さがあるか、どちらもそれを構成する性質に関しては等しく完全に決定されているか。彼は後者を選ぶ。(125)」
グッドマンは前批判的理解を放棄。
少ししか間違った音符を弾いていない演奏が作品のインスタンスではないする見解に、作曲家や音楽家は怒って抗議しそうだ。通常の言葉の使用法がその時彼に味方するのは確かだ。でも通常の使用法はここでは理論にとっては破滅に導くものなのだ。(G.n.120)
グッドマン批判者の不満はおさまらない。批判者たちは、唯名論・外延主義・前批判的直観との断絶のすべてを受けいれない。 彼の理論と私たちの考え方との違いは大きすぎる。不満には責任が伴う。「批判者たちは、理論的に一貫していて音楽現象との充分な関係を維持している説明を与えられるのだろうか。この二〇年の間、多くの理論が生み出される動機をもたらしたのはこの問いである。次章で、私たちは、これまでに提供されたなかで一番尤もらしい説明の一つを考察するつもりだ。」
要約:演奏は、同一の性質をすべて実際に例化していなくても、例化しようと意図し、例化していると認知している作品の同一性のゆえに、同じ作品の演奏と呼びうるのではないか。この考えからは、作品のプラトニズム的ないしアリストテレス主義的観念生じる。同一性を持ち性質が不変なのは「作品」だ。これはしかし素朴な直観でもある。グッドマンはその直観を拒絶したが、批判者たちは、むしろグッドマンによる唯名論・外延主義・直観との断絶を拒絶する。では、彼らは、そうした理論を提供できるだろうか。もっとも成功した試みはレヴィンソンだ)


2013年11月29日金曜日

リディア・ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」7

第14節
第14節は再び精度が上がる。但しグッドマンの翻訳二箇所は間違い。
グッドマンにとって問題は、何かが楽譜として機能するために満足すべき条件と、何かが演奏であるために満足すべき条件の両方だ。だから、記譜と記譜に従うもの(演奏)の関係は完全であらねばならない。
以下、グッドマンの引用二箇所の原訳と試訳を並べる。

原訳「楽譜が要求する楽音を特定・実践する上で必要な能力は、当の楽曲の複雑度に即して増すものだが、実践[の質]を見極める上での決定的な理論的検証というものが存在する。そして解釈上の忠義や独自の価値がいかようなものであろうと、演奏は、—この検証によれば—対象作品の組成的属性を持つか持たないか、そして当の楽曲の厳密なる演奏であるか否かの、どちらかなのである。」(まあそれはどちらかなのでしょうけれど…)
試訳「楽譜が要求する音をそれと見分けたり作り出したりするために要求される能力は、楽曲の複雑さとともに増大するが、それでも、理論的には、楽譜に従っているかどうかの決定テストが存在する。解釈上の忠実さや独自のメリットが何であれ、演奏は、このテストをパスするかどうかで、当の作品を構成する性質のすべてを持っているかどうか、厳密に言ってその作品の演奏なのかどうかが決まる。(G117-8)」(118)

原訳「作品の真なる事例化に唯一必要なもの、それは楽譜への完全な準拠である。つまり楽譜自体は演奏に関する特徴を明示せず、一定の限度内において多くの変容を許容するかもしれないが、既に記述されている詳述事項への完全な準拠は無条件に必須である」
試訳「楽譜に完全に従うことが作品の真なるインスタンスへの唯一の要求である。…だから、楽譜は演奏の多くの特徴を特定しないままにしておくかもしれないし、それ以外の特徴については一定のあらかじめ定められた範囲の中でかなりのヴァリエーションを許すかもしれないけれど、与えられた指定に従うことは無条件に求められている(G187)。」(119)
(complianceを「準拠」と訳すことに文句をつけないとしても、間違いは「つまり…」以下にある。「特定しない」のと「ヴァリエーションを許す」のは原文では排他的だ。)

グッドマンによると、作品には、「自由な遊び」を作曲家が許さない性質がある。典型的には音高・音価・調性。これらは作品の構成要素なので、特定される必要がある。「ある程度のヴァリエーション、解釈の自由、「お好きにどうぞ」が認められる性質は偶然的で予見不可能な性質だ。
一定の自由があることは音楽システムの記譜的性質を脅かさない。楽譜が記譜要件を満たす限り、作品を権威的に同定することが可能。この見解に何か問題があるのだろうか?

本節は、大体半分くらいの文が正しく訳されているように見える。肝心なグッドマンの引用が×なので分からなくなっているけれど。

15節
前節で、「何か問題が?」と問いかけているので、問題の実例を挙げている。演奏者の一人が途中でくしゃみをしたら、「完全に従う」という条件は壊れ、その作品の演奏ではなくなってしまうのか?
楽譜が演奏を構成する性質を規定し、何かが演奏なのは完全にその性質に従う時だとすれば、くしゃみで壊れることはない。偶然的要素はあるし、二つの演奏が完全に同じ音を出すなどまずない。つまり、「演奏を構成する性質を妨げない限り、どんな特徴を加えても構わないのだ。その結果が演奏であることに変わりはない。これは望ましくない帰結だ。果たしてそうなのか?」(120)
Gなら、それが望ましくないのは実践ないし質に関してだけ、と言うだろう。「彼は多分、楽譜が複合符号であり、作品を演奏するというのは各個別符号に従うというよりもむしろ結合した形での符号に従うということの問題だ、と想起させるかもしれない。作品を構成する符号に従っているなら、結合した形でそれに従っていたのであり、このことは、すべての楽譜の間にくしゃみがあった、という可能性を排除するのに充分だろう。」
「多分、くしゃみが一つぽつんとあってもそれは、グッドマンの言葉だと、演奏の同一性ではなく質に影響する偶然的な特徴の一つに見えるかもかもしれない。」くしゃみは奏者の加えるヴィブラートみたいなものかも。くしゃみを「加える」という選択を妨げるために、未確定という意味での「記譜上の偶然的な性質」と、記譜上の規定とは無関係な「アクシデント的性質」を区別することも出来る。くしゃみや雷などは後者。(iPhoneの呼び出し音や教会の鐘も)前者は演奏に際して選択可能だけれど後者は不可。でもこの区別は不要だし何の役にも立たない。
Gだと、演奏は、それを構成する作り出された音によって、その音がどこまで楽譜を守るかに応じて説明されるべき。偶然的な音は無関係。くしゃみややり過ぎのグリッサンド(メンゲルベルクだ)が演奏の同一性をおかすのは、作品を構成する符号の遵守を妨げたときだけだ。そこまで来ると、演奏は不適当ないし不完全だ。そうした演奏があっても、完全な遵守が演奏の同一性に充分で同一性を決定するかどうかには無関係。
グッドマン説が崩せないのには認識論的な問題もある。演奏かどうかを判定できないような例を作り出すことは出来ない。その考察は無関係だとグッドマンは反駁するだろう。あるサウンドイベントが楽譜に従っているかどうかを我々がどのように知るのかは、演奏が完全に楽譜に従うことを要求する存在論的な条件とは無関係だ。(前者は認識論的問題だ)。この点は記譜上の偶然的な性質とアクシデント的な性質の区別についても当てはまる。
くしゃみはグッドマン説の妥当性と無関係。でも批判者は、くしゃみよりも、当の楽譜に完全に従わない多くのイベントを演奏のうちに数え入れたい。それがグッドマンとの不一致の核だ。グッドマンの場合、くしゃみはいくらあっても良いが、一つのミス(ひとつの間違った音)を持つ演奏でも演奏とは認めない。どんな理論的問題が彼にこんな立場をとらせたのか?
後半は原訳のままでほぼ問題はない。)

2013年11月27日水曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(6) 13節

13
13節に入って、翻訳は再びほぼ出鱈目なものに戻った(後半はレベルが上がる)。ここではアラン・トーミーのグッドマン批判が取り上げられる。これはジフの批判よりもおそらくは重要であり、節としてもこの章の中で一番長い。再び、重要な誤訳箇所は青字にして翻訳(ないし要約)を行うやり方に戻る。どう間違っているのかは訳書を見て下さい。もとの翻訳に重要な間違いがない場合は「」内の私の訳も黒字。

アラン・トーミーは、楽譜の符号characterモデルに代えて規則モデルを採用する説得的な理由を提示した。かれがそうしたのは、グッドマンのモデルを支持するためではなくその代案モデルを与えるためだ。」第一に、トーミーは、不適切楽譜は音楽を作品ではないものにするというグッドマン説を拒絶する。「偶然性をもちいる楽譜はグッドマンが記譜に求める要求を満たさないという事実からは、「そのシステムは異なる演奏の間での作品の同一性を決定する手段を提供しない」という結論は帰結しないからだ。我々は実際偶然性を用いる作品を同定するのである。」だから、同一性には記譜以外の保証が必要だ。第二に、トーミーは、規則モデルが非グッドマン的な事例だけではなく全事例を説明する理由を示している。非記譜的な「同一性の保証」を与える点で規則モデルは符号モデルにまさるのである。
不適正楽譜を適正楽譜に翻訳する必要はない。「記譜の正確さ以外にも作品の同一性を保持する役に立つ条件が存在するからだ。グッドマンの線で考えられた記譜が、一連の演奏における作品の同一性を説明するのに不充分であることを証明するなら、「作品」クラスのなかにより多くの種類の音楽を入れることが出来る。」記譜以外に、信念や意図などの非外延的条件が必要。それらを認めることで外延・記譜条件はフレクシブルになる。重なりあうクラスの作品や演奏の同一性を決定するのにこれらの条件は役立ちうる。
「「同一性」という言葉にはとても多くのものが詰め込まれている。」GもTも、聴かれるもの、楽譜などで読まれるもの、聴くことになるだろうと語られることによって作品の同一性を決めようとはしていない。「彼(T)は同一性という語をテクニカルに用いている。つまり、何かが同一性を持つのはそれが一定の外延的あるいは非外延的条件、あるいはその両方を満足する場合であり、かつその場合に限る、と。トーミーとグッドマンの違いは、どんな種類の条件を作品の同一性に関係がある条件として認める気があるか、という点にあることが分かる。」
「符号に従うことに代えて規則を満たすことを持ち出すことで、楽譜が作品の同一性決定のための権威となる原理だ、というグッドマンの主張は影響を受けるのか?外延主義へのコミットは脅かされるだろう。でも、もしグッドマンが規則モデルを外延的に定式化できたら、規則も結局符号と同じことをする、という結果にならないか?」Gの符号=(トーミーたちの)規則でどこに障害がある?
「障害は次の点にある。グッドマンの記譜システムは取り出しプロセスを通じての作品の二方向の同一性決定を許す。」(北野コメント identificationは「同定」でも構わないが、このあたりでは特にidentity(同一性)が問題になっているので「同一性(の)決定」としてみた。)楽譜からも作品の適切な演奏を「取り出しうる」し、演奏からもそれが適切である作品の「楽譜」を取り出しうる。「符号モデルを規則モデルで置き換えることで、この二方向の同一性決定は脅かされるだろうか? 演奏を聴くことで、どんな規則に従ったのか、その規則の同定を行うことが出来るだろうか? 私には疑わしい。でも、それが規則モデルの問題であるなら、それは記譜モデルの問題でもあるのだ。」ジフは、記譜上の性質だけからは演奏を聴いて作品を取り出すことは出来ないと批判した。伝統も考慮しなければ。だからZもTも、「楽譜はそれ自体で作品を定義できないと結論する。」
楽譜を読み、演奏を聴く際に、何が作品を構成する性質になるのかについての理解を持っていなければならないことをグッドマンは認めるだろう。」人が読むのは黒いしるしではなく意味ある記号なのだ(G117)。しるしを楽音に変換する規則を知っていること、「一点ハ(の記号)にしたがうもの(音)を作り出すことのうちに何が含まれているのかを知っていること」が前提とされる。つまり「記譜符号の意味は当該の伝統の文脈で測られるべきであることが前提とされている。同様に、演奏を聴くときには、音がしたがっているのはどの符号なのかを私たち(あるいは少なくとも誰か)は知っていると想定されねばならない。」
「グッドマンがこれをすべて認めるかどうかは彼の理論とは殆ど無関係だ。取り出しテストが語っているのは理論的に可能でなければならないことだけだからだ。」実践において何が可能であらねばならないかは語られていない。理論の検証のためではなく、単なる興味のために、モーツァルトがグレゴリオ・アレグリのMiserereの演奏を聴いて記憶して楽譜を書いた(法王の怒りを買う危険を冒して)ことを思い起こすこともできよう。
 でも「規則モデルを主張する人たちも同様に自分の立場を弁護できる。取り出しテストをパスすることを、規則モデルは原理的に要求するだけだからだ。規則が守られているとき私たちが原理的にそれを認識しておりその規則を同定できることが、規則を理解することの部分をなしている。その規則を実践において正しく同定できるかどうかは別の問題だ。」取り出しテストが理論的可能性の問題なら、それは符号モデルと規則モデルの優劣を決めるのに役立たない。理論的にはどちらも上手くパスする。
「あらかじめ外延主義に与するのでないなら、取り出し手続きを助ける非外延的条件の可能性を(外延的条件に加えて)追求しても構わないだろう。」同じ外延的語彙で考えた二つのモデルの優劣ではなく、たぶん全く異なる存在論的なコミットを行っている二つのモデルの優劣が問題になる。
トーミーの規則モデルは偶然性音楽と古楽を説明できるという利点があり、これは大きな利点だ。でもグッドマンはそれを利点とみなさないだろう。彼はそれらを翻訳によっても、また作品カテゴリーからの除去によっても扱える。もう一つ、グッドマンがそうした例を気にしない理由がある。「彼の意図は、音楽世界の理想化に基づいた作品の同一性の説明を作り出すことだった。現実世界で何が作品とみなされているのかにも、彼の理論的条件を満足させる作品が現実世界にそもそも存在するのかにも直接の関心はなかったのだ。
この論点も批判者には受けいれられない。理想化とは、そもそも現実世界の実例への知識に基づくものであり、グッドマンが求める理論的純粋さを保つことは出来ない。「自分の関心が「[音楽の記譜の]起源や発展にではなく、楽譜の言語がどこまで充分に真に記譜システムとして認められるのか(G181)にある」というグッドマン自身の但し書きにもかかわらず、彼の主張の多くはなおも実例の知識を前提としている。もし、グッドマンが、自分はいかなる経験的知識も前提としていないと主張し、「作品」「楽譜」「演奏」といった語彙の使用は理論内部でのみ正当だと断言するなら、私たちは、彼は何について話しているのかと、彼に問うことが出来るだろう。彼の理論は何の理論なのか? 彼の主張は実際の音楽作品と関係があるのか? あるとしたら、結びつきはどこにあるのか? ないとしたら、どうしてこのような語彙を使うのか? 彼の語彙使用は、同じ語彙を非理論的な意味と結びつける人々を混乱させるものではないのだろうか?」
批判者に対してグッドマンは、どんなこの世の現象についての理論であっても、現象そのものへの忠誠をときに上書きするような要求を満たさねばならない場合があることを思い起こさせるだろう。実際にかれはしばしばそうしたことを言う。」かれのこの応答の背景や問題を理解するには演奏についての彼の説明に向かう必要がある。

赤旗劇評:新国立劇場 「ピグマリオン」

赤旗に新国立劇場の「ピグマリオン」の劇評を書きました。
何というか、予想外に面白かった。
劇評はこちら

2013年11月26日火曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(5)

11
11はまた間違いが増えた。議論は単純なので間違い訂正(大きいもののみ)。
ゲーアがここで述べているのは、そもそもグッドマンは、ジフが提示したような反例に対し、不充分な楽譜から習慣や趣味の洗練を通じて充分な楽譜が再構成されるという解決(§10)ではなく、それらは「作品」ではない、という解決を求め、その場合、それらは「作品」ではないのだから反例は反例になっていないという議論が可能だ、という話である。

identityを「同一性(同じであること)」ではなく、「本性」としてしまうのはこの訳書では一貫しているし、notationへの「表記」と「記譜」の揺れもここにとどまるものではないが、誤解を招くことに変わりはない。それを除いても、重要な間違いが結構ある。この単純な議論(反例は作品じゃないから反例じゃないよ)を理解していない気がする。

「不十全」を「十全」へと翻訳する」→「不適切な楽譜を適切な楽譜に翻訳する」(111)。
「すべてが表記されている楽譜に忠実な全演奏が、作品の同一性を指し示すわけではないという史実への言及に立ち戻ろう」→「すべての演奏がいつも、何もかも指定してある楽譜に演奏者が従うことによって実現するわけではないということを示す歴史的データを思い起こそう。
「一般的な意味での音楽作品と異なり、音楽作品概念は、音楽は十全たる指示事項を受け、[それを基に]演奏において多様に事例付けされるべきだという思考とどのような関わりを持つのか」→「より広くとらえられた音楽とは対照的に、音楽作品という概念は、音楽が演奏によって充分に指定され多数的に例示されねばならないという観念と、どこまで密接にかかわっているのだろうか」「より広い意味での」でも良いけれど、ここで対比の両方に「作品」を入れるのはゲーアの理屈への無理解を端的に明らかにする間違い。
「楽譜とは、…作品とその演奏の本性認識において厳然たる理念としての権威を持つ」→「楽譜が、…作品とその演奏の同一性にとっての権威ある原理なのだ。」identityという概念で問題になるのは、作品の演奏が他の作品のではなくその作品の演奏であるという「同一性」であり、それは、特に何らかの不可欠な名指しうる性質たる「本性」を前提としない。一つミスタッチしても同じ作品だけれど、別の音符の割合が増えてくると、どこかで(曖昧な)境界をこえて「別の作品の演奏になる」。でも、そう言うためには「楽譜」が必要って話。
「音楽」と「音楽作品」がいろいろごっちゃになっているから、次のようにわけわかな文になったり、端的に都合の悪い文を省略したりする。「もしもある音楽作品に十全たる記譜が存在しないのなら、そうした音楽との関わりは作品との関わりを意味することにはならない。またそれは、…」→「たぶん、理由は何であれ、適切な記譜が存在しない音楽を扱っているとき、私たちは作品を扱っているのではない。タルティーニのソナタは音楽だが、音楽作品ではない。またそれは、…
「(グッドマンの反対者)に必要なのは、我々が実践において作品と呼び、[グッドマンへの]反証事例として用いる事例はすべて、グッドマン自身による誤った事例として却下可能である、という事実の認識である(112)」→「彼らは、私たちが実践において作品と呼び、反例として役立つように作り出された例示を、グッドマンは常に不当な例示として却下できるのだ、ということを受けいれるように求められている。」「事実」じゃないしグッドマンが誤ったわけでもない。

12
急に訳語が良くなった。訳者が変わったように見えるほどだ。細かい間違いはいくつかあるが大意は分かる。二箇所だけ。「二つの演奏が「同一である」べきという思考」→「一つの作品の二つの演奏は「同じ音がする」べきだという観念」(113)「音楽作品は演奏の一類(a class)であり、そこではすべての適切な法則が遵守されることになる(114)」→「音楽作品とは、適切な規則がすべて守られている演奏のクラスである」。限定用法の関係代名詞だ。
「不適切」な楽譜は「適切」な楽譜に変更可能だ。現代音楽の場合、全く同じ音を各演奏で作り出すことも可能だ。コンピュータは、従来型の不適切な楽譜の適切な記譜をも可能にする。ただし、ここで作品を「構成している符号」はトーンとは限らない。リズム、デュナミーク、音価でもありうる。「音色や音高、調に関する伝統的記述は作家の任意事項となり、音楽作品創作の上での条件ではもはやなくなるのである(原訳)」(114) (「記述」がちょっといやなのと仮定法のニュアンスが出ていないけれど、まあいいか)。


2013年11月23日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(4)



楽譜は、統辞論的要件を満たしているとグッドマンは言う。「実際に書かれた音符note markは、二つの音符・符号note characterのどちらなのか分からないことはあっても、両方だ、ということはない(103)」。統辞論的に分離され識別されている。
「テンポ記号などは記譜的ではなく…それゆえ作品を構成する性質には数えられない」テンポなどによって演奏はずいぶん変わる。それらは「演奏の質に影響するが作品の同一性には影響しない」(104 G185)。(同一性、とは作品が例えば第九かどうか。テンポなどは第九の演奏の質には関わるがそれが第九であるかどうかには関わらない。バーンスタインのもノリントンのも「第九」だ。)
統辞論的な違いと意味論的な同一性を含む場合(増二度=短三度、移調楽器と非移調楽器を両方指示する楽譜など)は?グッドマンは、それらは「明白で部分的な省略や修正」で対応可能とする。楽譜の記譜性を全体として覆さない。
批判者は「明白で部分的」な修正ではだめなので、グッドマンの理論は不充分だと考える。でもグッドマンによれば、彼は楽譜が理論上果たすべき要求を特定しただけ。「何が理論的に可能であり決定的なのか。なにが理論的に妥当でなければならないのか。理論という実験室の外側で楽譜がどのような条件と状況で機能しているのかは彼の関心対象ではない。」彼の関心が一貫した理論的説明であるのに対し、批判者は実践との一致に基づいてグッドマンを判断している。
7は、いくつかの訳語、ニュアンスの違い、そんなに本質的ではない誤訳があるものの、大きな間違いはない。このレベルのミスなら自分が訳してもやるかもしれない。グッドマン・ジフ論争の紹介のパートがこのレベルまで正しく訳されているのなら、これ以上些細な誤訳を言挙げするのはよくない。)

8
音楽作品の同一性を巡る論争では、どんな理論家であれ、ある特徴が作品を構成する特徴だと一般的で固定的な仕方で特定しようとすると危険が生じるのが常だ。この危険は、ある作品にとってどの性質が構成的でどれが偶有的なのかを特定しようとするよりも、永続的な、すべての音楽作品に当てはまる一般的特定を行おうとするときに大きい(105)」。ポール・ジフがタルティーニの「悪魔のトリル」をグッドマンへの反例として用いたときそれは生じた。ジフによると、グッドマンの要求はこの曲の本質的なトリルを偶有的なものにしてしまう。もしそうならグッドマンの理論には問題があるが、果たしてそうなのか
ジフは同一性と質に結びつきがあると考える。ある性質が同一性にとって本質的なら、すべての演奏で示されるべきだし、そのことは作品の質と性格に影響する。ジフは逆も言いたい。「質のために、トリルがタルティーニのソナタのすべての上演で演奏されるべきならば、それは楽譜化されて、ソナタの同一性を構成するものとみなされるべきだ(106)」。これはそう簡単には言えないが、言えたとして、ジフのグッドマン反駁は正しいか?
ジフの反論の力をどんな理由で判断できるのか?グッドマンは、タルティーニは自分の理論に当てはまらないけれど、理論はたいていの場合、標準的な場合に当てはまればOKと言うかも知れない。形式的な理論と実例はうまく合わないものだ。楽譜は「実質的に」記譜的だという主張と両立可能。その場合、グッドマンはなぜタルティーニのソナタが難しいケースなのかを語るなどしてジフの懸念を却けるべき。タルティーニの場合トリルは構成的な性質だと示唆してもよいだろう。でもその判断の根拠はなに?
タルティーニの場合、トリルの符号記号は複雑な音符パターンを簡略化した記号。グッドマンの言う複合符号。18世紀に典型的な、100以上の装飾一つ一つに記譜上のシンボルを割り当てた言語を用いていた。音楽家はそれをオプションとはみなさなかった。「最も重要な装飾で、ないとメロディがとても不完全になる」(Bénige de Bacilly)。「厳密に従うべきもの」(Friedrich Wilhelm Marpurg)。ただし、「どの音符に装飾が与えられるのか、メロディのどこであれこれの装飾が導入されるべきなのか」は「エレガントに演奏するという評判の人物を聴き、その演奏を、既に自分が知っている曲で聴いて」初めて趣味を作り出して同じようにすることが出来る。「すべての可能な場合に当てはまる規則を作り出すことは出来ないからだ」(FWM)。

(8は最初のパラグラフが良くないけれど、あとはほぼ邦訳で分かる)


9は18世紀における装飾音符の記譜の厳密化を歴史的にたどったもので、ほぼ読んで分かる。二箇所だけ、比較的目立つ間違いを指摘。

新種の記譜上の厳密さは、作曲家が決定したまさにそのままのありかたで音楽の同一性を保存したいという新しい欲望から帰結したものだった」(108)

どの音符がどの楽器で演奏されるのかを示したこうした指定は、常に楽譜の中で明瞭にされたわけでも、音楽の同一性にとって常に本質的だと考えられたわけでもなかった。」(109)

10

ジフが重視するような例は、グッドマンの立場からすると「記譜notation」ではない、というだけで、グッドマンの立場を脅かすものではない、という箇所。訳それ自体、というより[]で添えられた訳者の補足が間違っているのが気になる。ここだけ訳書の引用。
「他方グッドマンは、記譜習慣の歴史が指し示すものとは異なり、古楽における多くの楽譜は、彼が言うところの表記基準を満たしてはいな[く、故に作品と呼ぶことは出来な]いとする。最小限の事項のみ書かれている楽譜の本質的問題とは、準拠類において、[異なる作品の本性を巡り]重複が存在する[かもしれない]ことで、それは重大な欠陥と言える。[というのも]人が自身のアイデンティティに脅威を与えることなくして他人と身体部位を共有することが不可能であるのと同様、各楽曲の本性が保持されるためには、楽譜それぞれが詳細な規定機能を持つ必要があるからである。(183)」(110)
「グッドマンなら、楽譜制作の歴史には失礼だけれど、多くの初期の楽譜は彼の記譜への要求に適っていないと言いそうだ。最小限にしか記譜されていない楽譜の基本的な問題は、その従属クラスに重複があることであり、これは重大な欠点だ。個人の同一性に脅威を与えずに身体部分を共有できないのと同様に、作品の同一性が保持されるためには楽譜はユニークな指定を行うものであらねばならない。」グッドマンは楽譜を「作品」と呼ぶことが出来るなどとそもそも考えていないし、異なる楽譜が同じ演奏をその従属クラスのメンバーとすることは、楽譜の意味論的分離性に反している。
グッドマンにとって大事なのは、不充分な楽譜が存在しない、ということではなく、演奏から、充分な楽譜を構成することが出来るような記譜システムが存在するということなので、ジフのように反例を挙げてもそれは真の反例にならない。でもそうした解決は一番良いものなのかとゲーアは問う。

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(3)

さて、第六節からはグッドマンの「芸術の諸言語」の話になる。この訳も早く出て欲しいところ。基本的な訳語がいくつかあって確定していない(例えばdenotationが表示か外延指示かとか)のだけれど、グッドマンの『記号主義』と、ジュネットの『芸術の作品』のおかげで、彼の主張の大体は日本語でも分かる。ゲーアの議論は、グッドマンへのジフの批判を紹介しているところに大きな価値があるのかも知れない。ここではあまり訳語にこだわる必要はなく、一貫性と分かりやすさがあればよい。

6
グッドマンの目標は「シンボルの一般的・外延主義的理論であり、そこで、シンボルは「文字、語、テクスト、画像picture、モデルを含む「とても一般的で中立的な」方法だととらえられている」(99)。作品はシンボル体系であり、そう理解することで「楽譜の主要な機能と、演奏が特定の作品の演奏として分類されることが説明される」。彼の作品理論の詳細は哲学上で詳細に提示され議論されているので、ここでは本書の議論に関係のある側面だけを取り上げる。(だから、ノーテーションはグッドマンの広い文脈では「記譜」に限定されないけれど、この論文に関して「記譜」と訳すのは、パフォーマンスを「演奏」と訳すのと同様、便宜的にOK)
ある作品をそれ以外から区別する特徴は、演奏や楽譜とは別に存在する抽象的存在者があるという点にではなく、一つ一つの作品に特別の種類の楽譜があるという点にある。グッドマンはそれを「記譜notationシステムにおけるユニークに指定された符号character」と呼ぶ。「記譜」が特別の役割を果たすのは、「他筆的allographc」な芸術においてだ。「他筆的芸術−典型的には演奏や朗読において例化される芸術−は、自筆的autographic芸術とは違い、『演奏performanceの制作に関わるどのような歴史的情報も結果に影響しえない』(Goodman 118)がゆえに、それが芸術作品のオリジナルのインスタンス(例)なのか偽造されたインスタンスなのかの区別が重要ではない」ような芸術だ。記譜符号に完全に従うときかつそのときに限り、どのように作られようと、インスタンスは本物のインスタンスだ。「『歌や朗読のように作品が一時的であるときや、…制作に多くの人間が必要なとき、時間と人間の制約を超えるために記譜が考案されるかもしれない。このことは、作品を構成する性質と作品にとって偶然的な性質との区別が確立されることを意味する。』」
多くの異なった場で提示される一時的な作品の中心に記譜がある。一人では制作できない作品にとってもそうだ。音楽作品はこの条件を満たすようだが、そのことから、「音楽作品の同一性がこの記譜によって説明されるべきだということが帰結するだろうか。」グッドマンは帰結すると考える。「楽譜に示された音に演奏が従っているのだから、演奏は所与の作品〈の〉演奏として分類される」(G128-9)。
「楽譜に従う演奏クラスとして考えられる音楽とは何か?楽譜は記譜システムで書かれた符号だ。記譜システムはある指示領域と相関する符号からなる。符号はそれぞれ書き込み文字(ないし発話やマーク)だ。記譜システムは、演奏クラスと相関する楽譜(多分唯一の)からなる。作品ごとに、演奏の単一クラスと相関する単一楽譜が存在する。ここで「相関」とは「従う」ということ。従属項が符号・書き込み文字に、演奏が楽譜に従う一方向的な従属関係(楽譜—演奏—楽譜—演奏—…)。
記譜言語を構成するのは原子符号であり、それは結合して複合符号になる。音高符号(音符)は原子符号だ。それ以外は複合符号だ。複合符号の構成要素は互いに結合関係、「結合を支配する規則によって定められた関係」にある。それは音楽だと和声、リズム、和音などの規則。符号の結合には上限はなく、楽譜それ自体が一つの複合符号だ。
「楽譜は、ある作品を構成する特徴をその複合性のすべてにわたって記録するので、作品の同一性を保持している。」それが可能なのは、記譜言語の独特な性質によるといのがグッドマン説。記譜言語であるためには五つの統辞論的・意味論的要求を満足すべき。この要求によって、符号や従属項の内部での、あるいはそれら相互の曖昧さ、重なり、不確定性を排除。
「(1) 統辞論的分離性
 符号は、ふたつ以上の符号に属する書き込み文字がないように、分離していていなければならない。すべての書き込み文字は統辞論的に等価であり、統辞論的帰結なしに置換可能であらねばならない。このことは、ある符号の書き込み文字の間では、各書き込み文字が他のすべての書き込み文字の「レプリカ」である場合に保証される。これらの書き込み文字は、それゆえ、「符号に対して無差別的」である。符号への無差別性は再帰的、シンメトリー的、推移的な関係であって、そのようにされると、この関係によって生み出された部分に、符号に無差別的な書き込み文字のクラスを作り出す。
(2) 統辞論的識別性
 符号は有限に識別されていなければならない。『ふたつの符号KとK'のすべてと、このどちらにも事実上属さないすべてのマーク[書き込み文字]Mに対して、MがKに属さないことか、MがK'に属さないことのどちらかの決定が理論的に可能である。』(G 135-6)(たとえば事実上「i」でも「j」でもないようなマークについて、これが英語のマークならば、iではないかjではないのどちらかを決定できなければならない。ラテン語のマークならば、決定できなくても良い。)
(3) 単一決定
 各符号はある外延をユニークに決定しなければならず、それに属するかどうかはコンテクストを超えて不変である。こうして書き込み文字の曖昧さが禁止される。(G148)
(4) 意味論的分離性
 従属クラスは分離的であらねばならない。従属クラスの交差は禁止される(G150-1)。それゆえ、
(5) 意味論的識別性
 従属項が与えられたとき、それは他のものから充分に区別され、それが当該の符号に従うという決定が可能であらねばならない。」(101-102)
これらの要求を満たしたとき楽譜は主要な理論的機能を果たすとグッドマンは言う。楽譜が記譜的なら、どの楽譜を見てもどの演奏を聴いても作品を同定できる。これらの要求は作品の同一性が楽譜や演奏に保持されているかどうかの決定テスト。ゲーアはそれを「復元テスト」と呼ぶ。楽譜があれば作品と、それゆえその演奏を構成する性質を同定できるし、演奏を聴いて楽譜を復元できる。同定手続きはどちらの方向でも機能する。

5あたりから急に訳が良くなってきた。このレベルならば、何とか読めるかもしれない。少なくともグッドマンを全く分かってない、という感じではない。1−3のあのでたらめさは何なのだろう。

2013年11月22日金曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(2)

リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。

5
これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。

訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)

2013年11月21日木曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)

Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳青字で表記し、私のコメントはで表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)


序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。

本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。

1
音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠きいつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)


アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。


「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス「平均律」のありとあらゆる演奏を指示する便利な言語的なアイテム「平均律」に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。


クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。

(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)

解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。

著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。

2013年11月15日金曜日

今年のいろいろベストon 15/11/2013

年末になったらまた考えるとして、
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)

今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。

今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。

今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。

今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。

「起て、飢えたる者よ」劇評@ワンダーランド

小劇場レビューメルマガとウェブサイトの「ワンダーランド」に、劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」の劇評を書きました。
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。

ご縁が続くと良いのですが…

2013年9月19日木曜日

iOS7にした。

iPhone4SとiPad2をiOS7にした。今のところ特に日本語入力がもたつく感じはない。フラットデザイン、とくにアプリのアイコンの変化にはまだ慣れないけど、まああんまりOS使うわけじゃないから。時計とか、ソフトの中のフラット化の違和感が大きい。私の機種はまだ4S。
今のところ不具合はアプリ関係で、Goodreaderでパスワード入れたらアプリが落ちることと(これはアップデートで解消した)、iAnnotate PDFで内蔵辞書が落ちることくらい。
アプリの切り替え
マルチタスクの感じは悪くないが、アプリ切り替えの間、前のアプリの画面から離れてしまうのは良し悪しかなぁ。例えばPDF閲覧ソフトから外部辞書ソフトに切り替える時、切り替える瞬間まで閲覧ソフトを見ていたい。
Youtubeの音楽が(Safari上でもアプリでも)、裏に回すと止まるのは変わらず。6.1位で裏でYoutube鳴らすことが出来て「神」と思ったものだが。
切り替えた最初の画面表示はややもたつく。アニメーション効果をオフにできないかしらん。
あと、ギリシャ語Polytonicの配列とロシア語phoneticのキーボード配列がつけ加わり、前者では古典ギリシア語入力と、後者ではasdf配列の入力の選択が可能になったはず(朗報)のだけれど、実際の入力場面では変化なし。どうすればできるのかしら。(これらの配列はハードウェアキーボードにのみ対応だった。これは結構朗報ではあるが、なんでそんな中途半端な…)。

メッセージの背景が真っ白なのと自分のメッセージが白抜きなのが読みにくい。この辺は改善されずに押し通されそう。(一日でだいぶん慣れた。アップル教徒は教団のなすがままにならざるを得ないのだし。)

2013年9月12日木曜日

ダイ・ハード5

ダイ・ハード6が日本を舞台にして制作進行中なのだそうな。武器の入手がとても難しそうに見えるけれど、原点の舞台が日本企業のビルだったのを思い出した。忍者は出てくるのだろうか。
そう言えばダイ・ハード5はチェルノブイリで放射能汚染のただ中でドンパチやるわ、核兵器用濃縮ウランを満載したヘリコプターが大爆発するわのトンデモだった。埃の放射能濃度を下げるコスモリバース(コスモクリーナー)みたいなスプレーも出てきて、そんなんあったら良いよね。4から5まで結構時間がかかったので、6早く作らないとウィリスおじいさんになっちゃう。
で、ダイハードファンも含め人気が低いのだけれど、わりと共通している批判の一箇所は的外れだと思う。Amazonの感想だと「劇場版ではトランクを開けると大量の銃器を難なく発見していたが(そんな都合よく見つけられるかよ!というトンデモな場面)」と書かれているシーンだけれど、これ高級ディスコかなんかの駐車場でおまけに高級車のトランクだから、今のロシアでそんな車でそんな場所に行くのはギャングに決まっていて、かつディスコは武器携帯不可だから車のトランクに仕舞って行くはずだ、という息子の判断に基づくもので、一応の整合性はある。息子ディスコの用心棒やってた設定もあるし。無差別にロシアの駐車場のトランクには死体や武器が詰まっていると言っているわけではないから。
旧共産圏の高級ディスコでギャングやテロリストに会うって設定は、XXXにもあったので、ハリウッドでは、そういう人しかそういうところに行かない、っていうお約束なのだろう。

「なぜ,ヘカベ」東京演劇集団風

マテイ・ヴィスニユックの「なぜ、ヘカベ」を観た。風の公演だ。わたしこの劇団が苦手だということは覚えていたけれど、そうか「第三帝国の恐怖と悲惨」を観ていたのか……
えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。

彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…

翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、「最初に生まれたパリス」とかこれは翻訳者ご本人に誤訳ではなく原文通りと指摘された。そのちょっと前に、「年若の息子、パリス」とあるのでテキストの問題とは思わず訳の問題だと思った。) エジスト(アイギストスのこと)とか。これらには訳ではなくテキストの問題(ちょい殴り書き)もあるのかもしれない。「ヘカベは十九人の子を産んだが、全員死んでしまった。トロイア占領の時に、ギリシャ人たちに全員、虐殺されたのだ」もテキストが悪いのだと思う。

たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
「十年前、トロイアの美しい街の前で血が流れた。」「十年前、…英雄たちは、トロイアの街の城壁前の戦いで疲弊していた。」「ギリシアの最も苛烈な兵士アキレスは死んだ…」
でトロイアの木馬の話になって、
「さようならトロイア市民」「十年も面倒をかけてすまなかった。」

これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。

たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。

第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。

ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)

で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。

もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。

第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。

私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。

演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。

後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。

2013年9月11日水曜日

文学座「熱帯のアンナ」

例によって赤旗劇評から。 ネタバレになりそうなことは公演終了後に書き加えるかもしれないけれど、いまは赤旗劇評部分だけ。

2013年9月4日水曜日

近況報告@ツイッター始めました。

ツイッター始めました。ブロガーにはツイッターの記事と画像を一日単位で掲示したいのだけれど、ブロガーで直接やる方法が分からない。 勿論Twilogを使えば簡単で、 http://twilog.org/MasahiroKitano/
であとに日付を入れたら良いような気がする。 で、この間ほとんどのツイートが#ヴェネチアビエンナーレのハッシュタグを使ってその話をしているので、若干のそれ以外の話を取り除くには、
  http://twilog.org/MasahiroKitano/search?word=%23ヴェネチアビエンナーレ&ao=a&order=allasc

で良いような気がする。
でもこのページに適当な形で一日単位のツイートがまとめられた方が便利なので、その方法をいま探しているところ。

国際演劇研究集会(IFTR)の報告@赤旗

「赤旗」に七月のバルセロナのIFTRの報告を書いた。ずいぶん前に送ったのだけれど、ようやくこんなのんきなコラムを掲載してくれた。
一つ言い訳をしておくと、副題は編集部がつけました。事前に知らせてくれたのをOKした私が悪いのだけれど、「探求を交流」は日本語としてないわな。
新聞のヘッダ部分は例によって加工している。印刷の文字の列が何かがたがたなのは「赤旗」の所為ではなく、OCRの機能で、画像情報をフォント情報に置き換えるときの再配列に難があるから。クリアスキャン機能を使うOCRは、必ずしもオリジナルと同じ画像を提供するわけじゃない。「赤旗」の活字は新聞の中では読みやすい方だと思う。




2013年8月13日火曜日

旅行記録

旅行記録は、一応Twitterの方に帰国してからしこしことアップしている。ヴェネチア美術展の話にようやく入った。
やっぱり調べたりして書いた方が自分的に気持ちが良いので、その場でツイートは出来なくて正解だった気はする。

http://twilog.org/MasahiroKitano/date-130809/allasc

8月9日あたりから始まってまだアルセナーレの途中。

旅行の反省:モバイルWiFi

今回のバルセロナ・ヴェネチア旅行では、台湾の時の経験から、道案内を全面的にGoogleに頼ろうと思った。また、そのためにモバイルWi-Fiを利用しようと考えた。
当初考えていたのはEcomソリューションズの1GB限定プランで、一ヶ月一万円。まあそんな動画をダウンロードするわけではなし、主たる目的はネット検索とGoogleの道案内だから、楽勝だと思っていた。ところが六月中頃に申し込んだら、もう在庫なしになっていた。
仕方がないのでテレコムのにして、一日1200円で17000円程度(出国日と帰国日も勘定に入るから二日分は無駄になる)。
ここまでは分かっていたことで、成田で受け渡しの時に、これも1GB上限がかかっている旨を知らされた。これが新情報で、後でちょっと考察。動画とか、ゲームとか、あるいはGPSなんぞが危険とのことだったが、GPSにそんなにパケット使うとはとても思えない。地図はベクトル化しているし位置情報は別枠だし…
あとは充電器をつけるかどうか、保険をつけるかどうかで、ちょっと見ると保険が下りるためには盗難証明が必要で、これを盗まれそうな状況で盗難証明を取る暇があるかどうかは疑わしい(イタリアだと昔ナポリで十五分で出たが、イギリスではわざわざ警察署に届け出ねばならず、それでも盗難証明は出ずに、警察に届け出たという証明が出ただけだった)。で、盗難証明が出るなら旅行保険が下りるじゃん、と考えて保険はなし。充電器も、iPhoneと両方同時に充電できるタイプの大容量のAnkerのを持って行く予定なのでこれもパス。本体だけ価格になった。この辺は正解だったと思う。
大失敗は前に書いたけれど、iPhoneのフォトストリーミングをオフにし忘れていたことで、これその時に思ったのになぜしなかったんだろ。iPhoneのフォトストリーミングはiPhone常の写真をWifiの時を選んでiCloudで共有する機能で、今回1500枚くらい写真を撮った(半分くらいは美術写真で暗いのでぶれぶれ)ので、どう考えてもオーバーする。300枚くらいのところでテレコムから「何してんねん」というメールが来て漸く修正。半分くらいでメールくれると良いよね。iPhoneのフォトストリーミングは結構無意識にONにしているので、注意書きがあるとさらに親切。動画とかゲームとかだけ書かれると「関係ないや」と思ってしまうもの。
それで、規制がかかって、それでもすぐ全部止められる、という訳ではなく、ちょう遅くなって、画像のアップロードとかは出来なくなった。これは今回作品の感想を同時的にツイッターすべ、と思っていたので計画変更を余儀なくされた。(実際のところ、美術展見ながら一個一個について感想を書く暇はなかったので、これもまた結果的にはそれほど悪くなかった。)
一番恐ろしいのは、今回行くべき場所、泊まる宿をすべてGoogleのお気に入りにして、iPhoneをガイド代わりに使う予定だったのが上手く行かないのではないか、という可能性だが、遅くてもなんとかそれは出来た。帰国便が出る直前に完全遮断されたけれど。
さて、テレコム様の説明では、ヨーロッパは最近1GB規制が激しく、これはやむないことなのだという話だった。でも成田で言われても他に選択肢はないしなぁ。
それはそれで不可抗力なのだけれど、
http://www.cellularabroad.com/italyRmifi.php
を見てみると、Unlimited (10GB 3G speed) Data Portable WiFi Hotspot Rental for Italy - See more at: http://www.cellularabroad.com/italyRmifi.php#sthash.0Itlx5jX.dpuf
なんてことが書いてある。
Cellularのヨーロッパ向けMiFiは二つのコースがあるようで、一ヶ月99.5$限定で総1GBのものと、一日14$程度で10GB 3Gスピードのものだ。私はこのあたりは調べていたので、てっきり後者と同一レベルのサービスが行われるのだと思っていた。後者に近い価格だったのに(円安のせいでいろいろあったのだろうか)内実は前者だったのでかなり残念感がます。テレコム様の話では、ヨーロッパでは規制が激しくなり、1GB以上は無理だということだった。そうなのかもしれない。
なお、事前にテレコム様に実際に可能な容量を確認したわけではないので、これは当方の勝手な思い込みだ。ありそうなストーリーは思い浮かぶが、テレコム様の説明の通りなのでしょう。

2013年8月8日木曜日

こまつ座 頭痛肩こり樋口一葉 (赤旗劇評)

こまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」の劇評を赤旗に書いた。私が日本を出発した二日後の七月二四日付で掲載になったので、ウェブに載せるのが遅れた。

私はあまり井上ひさしの熱心な観客ではないのだけれど、この舞台に関しては、もう少し速くて鋭い動きだと笑いが強まるのにと思った。見に行ったのが初日に近かったのかも知れないし、観客層が比較的年配なのにあわせたのかも知れないけれど、やや笑いが微温的。

劇評は作品紹介にほぼ留まっている。最近またあまり演技について書けなくなっている気がする。





2013年8月6日火曜日

Roger Waters The Wall Concert

ローマで観てきた。元フロイドのリーダー、ロジャー・ウォーターズの「壁」コンサートだ。観たときの感想はツイッターで書いたので(投稿は遅れたけれど)http://twilog.org/MasahiroKitano の八月四日あたりを見て下さい。
どこかに書いたけれど、フロイドの、「ウォール」は思い入れのある作品だ。というか、アルバムの時は、そんなにでもなかった。ぼくにはフロイドはウォーターズ・バンドで、「原子心母」「狂気」あたりが好きだった。バレット・バンドだった「夜明けの口笛吹き」が分かりにくかったのに対し、メロディや盛り上げの分かりやすさも好ましかった。シンフォニックで長い曲が一つ含まれているのも好きなところだ。ギルモア・バンドになってからのコンサートに一度行ったが、前半の新作アルバムはつまらなかった。豚は飛んだけれど、スペクタクルにそんなに金をかけてないのもがっかり。
でも、「ウォール」は一曲が短く、ストーリーがはっきりしすぎで、コンサート形式でやるロックオペラみたいだった。何となく物足りない。
印象が変わったのは、ボブ・ゲルドフの映画版を見てからだ。東京まで行って一日に三回見た。劇中のピンク・フロイド青年が、奥さんに浮気されて自分もファンの女の子をアパートに連れ込んで急に狂ったように暴れ出し部屋のものをめちゃくちゃに壊した後、それを床の上にアートのように並べ(廃品アート)、独特の秩序への志向を示し、そのご、カミソリで髪の毛と眉、さらには乳首までそり落として、スキンヘッドの極右ロッカーに生まれ変わったところは、その内部の空虚さに怖気がした。(奥さんとは長髪で反原発運動にも参加していたのに)。
彼はその後むりやり連れ出されたコンサートで次のように歌う。
なぁ、みんな、悪いニュースがあるんだ。ピンクは調子が悪くてホテルから出てこない。で俺らが代理で送り込まれた。それでこれからお前らファンの品定めからやる。今夜この劇場に、ホモはいるか?壁にたたせろ。スポットライトを浴びてるやつ、あいつもまともには見えない。壁にたたせろ。ありゃユダヤにみえるぜ、あいつぁクロじゃねぇか。こんな屑どもを入れたのは誰だ。クサ吸ってる奴がいる。注射針の跡が見える(spotってそういう意味じゃないのかしら)奴もいる。出来るなら、お前らみんな撃ち殺してやる!
映画ではそこから「ラン・ライク・ヘル」に変わって背後では彼らの自警団が異人種カップルをレイプしたり 蛮行の限りを尽くす。そして屑のスキンヘッズになったピンクはその先頭に立って拡声器でがなりまくる。この辺ぞくぞくした。1990年のベルリンのウォールコンサートでは、舞台上に親衛隊の制服のような衣装のグループが登場し、ナチの旗を想像させる彼らの金槌二個を組み合わせたマークの旗が翻る。Youtubeでベルリンコンサートを誰かが分割アップロードしていた時も、この場面だけはすぐに削除された。

今回の公演で、大きな違いは、実際にピンクの新しいファシストグループは現れず、すべてウォーターズの内面の妄想のように描かれているところだ。旗も、壁に映像で描写されるだけだ。ウォーターズはだから最後に実際に(おもちゃの)機関銃を乱射する。映像に凝った分だけ、舞台上の劇的アクションは減らした感じ。巨大な人形(母、妻、教師)も、全部出てきたっけ?教師だけは覚えている。Another Brick in the Wall part 2で子供たちのコーラスグループが出てきて教師人形に抗議する09年版の趣向はそのまま。ツアー先の地元の子供たちを使っている。人形はベルリンの時ほどは動かない。壁自体は、主人公の内面の孤独の象徴の面よりも、巨大なスクリーンの面が強くなった。演奏も写すし、メッセージも写す。メッセージは結構はっきりしていて、冒頭にウォーターズが「すべての国家によるテロに対抗しよう」みたいなことを言うのに観客は大受けしていた。Rogerwaters.comの最新のメッセージもトルコ人民への連帯声明だし。
最初に飛行機が舞台奥に突っ込み、最後に黒い猪が空を飛ぶのはフロイドらしい。

さっきのギャグみたいな極右シーンにはネタ元がある。フロイドのアルバムの三年前、1976年にエリック・クラプトンは次の発言をバーミンガムのコンサートでしている。(翻訳はEAZEART (http://www.eazeart.com/rock-against-racism/2973/) のものを引用)
今日の客のなかに外人はいるか?Wogs(有色人種を指す差別用語)だ。いたら手を挙げろ。この間アラブ人が俺の嫁さんのケツを触りやがったんだ。この国にいる外人、Wogsはみんなそんな胸クソが悪くなるような奴らばっかりだ。そんな奴らは出てけばいい。ただこの会場を出てくんじゃない、俺達の国から出て行け。ここにも、この国にも、お前らみたいなのはいらねえんだ。みんな、よく聞け。俺達はみんなイノック・パウエルに投票するべきだ。彼は正しい。あんな奴ら、みんなまとめて国に送り返しちまったほうがいい。イギリスが黒人の植民地になるのはまっぴらだ。外人を追い出せ!Wogsを追い出せ!Coons(黒人を指す差別用語)を追い出せ!イギリスは白くあるべきだ!俺は昔はヤクにはまってたけど、今は人種差別にはまってるんだ。クソWogsめ!ロンドンなんかサウジの奴らに占領されちまってる。黒いWogsもCoonsもアラブ人もジャマイカ人もここにはいらねえんだ。ここはイギリスだ!ここは白人の国だ!WogsもCoonsもここにはいらねえ!イギリスは白人のための国だ!汚ねえWogsが隣に住んでるなんてまっぴらごめんだ!イノックを首相にして、もう一度イギリスを白く染めようぜ!
このショッキングな言葉が直ちにロッカーに反レイシズム運動を組織させたことは、引用元のEAZEARTページに詳しい。

ウォーターズの「ウォール」コンサートは、2009年のユタのが、テレビ画像かな、比較的できの良い状態でYoutubeにアップされていて、なんか変な裏声のコーラスグループに頼りすぎな気がした。今回は基本同じだけれど彼がもう少し歌っているように思った。

このアルバムでなんか誤解していて、今回修正できたのは、Bring the Boys Back Homeという歌のBoysは「子供たち」ではなく「軍人たち」を意味するんだってこと。昔のアルバムの歌詞対訳に引きずられていた。父親が戦死したことが、ピンクの個人的な破滅の根底にあるって話。

観客は老若男女そろっていて、半分くらいが写真撮っているし、有名な歌では一緒に歌っているし、まあ楽しそうだった。
冒頭 In the Flesh? 
壁完成してIn the Flesh
壁無事崩れました




2013年7月25日木曜日

授業案内:美学特講2

学科のブログに自分の授業案内を書かねばならなくなり、とりあえず自分のページに原形を書いておくことにする。

美学特講2 (北野雅弘)

美学美術史学科の教員の北野です。

私は、美学特講の1と2、美学演習の1と2、美学概論2、あと西洋古典語のA, B, Cを担当しています。特講は2が前期、1が後期というちょっと変な時間割です。それぞれ半期で区切りがつくので、どちらを先にとっても、またどちらかだけでも構わないのですが、順序としては2を先にした方がやや分かりやすいかしら。


今年の授業は、ロバート・ステッカーという人の書いた、「分析美学入門」という本を教科書にして、前期は「自然の美的観賞」と「芸術とは何か」という問題について講義しました。


「芸術とは何か」ということが問題になる、というのも変な気がします。私たちの歴史は素晴らしい芸術作品で溢れており、わざわざそれが「何か」などと問うのはばかげたことに思われるからです。芸術作品がそうでないものから一目瞭然に区別されている限り、私たちは「芸術とは何か」と言う問いを生活のなかで発したりはしません。

しかし、取り分け20世紀の芸術の発展は、私たちが芸術とそうでないものについて、純粋に感覚に頼って区別をすることを不可能にしました。デュシャンはどこにも美しさのかけらもないような日常の既製品を芸術として展示し、レディメイドと呼びました。ウォーホールは洗剤の箱にそっくりの立体作品を作りました。
 参考リンク
デュシャン「
ウォーホール 「ブリロ・ボックス


そうした作品は、単なる悪ふざけ、として片づけてしまったら良かったのかもしれません。でも、レディメイドからもう100年もたち、ウォーホールの洗剤の箱からももう五十年がたちました。それらの作品は、芸術としての地位を確立しただけでなく、一つのジャンルとしても、揺るぎないものになっています。最初は悪ふざけかもしれないと思われていたものは、実は歴史的な必然性に基づいていたのです。
造形芸術に関して、私たちはただもはや芸術を再現や表現としてだけ理解することはできず、美的経験によってだけ理解することもできないのです。ロバート・モリスは「何ら美的価値がないこと」の証明書つきで自分の作品を発表しています。

参考リンク
モリス「連禱

それでは芸術とは何なのか? これは美学研究者だけの問題ではなく、20世紀以後のアーティストの問題でもありました。美学特講2の後半の部分は、「芸術とは何か」というこの問題に、定義の探求という形で理論的な解決を模索する授業です。

なお、私の授業用のブログでは教科書以外の授業用プリントを公開しています。



2013年7月21日日曜日

IFTRの発表原稿

バルセロナで来週開かれるIFTR(国際演劇学会)の大会の原稿がようやく出来た。写真と演奏を含んでいるので、著作権的に(写真は記録写真と考えてまた撮影後50年をすぎているので大丈夫な気がするのだけれど、演奏(学生の知り合いに頼んで作ってもらったmikuによる演奏)がクリアしているかどうか分からないので、パワーポイント版ではなく、PDF版を事前公開。写真などの画像は「引用」の範囲ということで。パワポスライド57枚、2800語くらい。読み切れるかなぁ。(実際の原稿はもう少しだけ長い。)これでフロストが読める。もう一つ、ネレ・ノイハウスの『白雪姫には死んでもらう』も機内用ミステリにしよう。ノイハウスの前作『深い疵』はあまりに見え見えな展開とそれからもうひとつあり得ない設定にちょっと↓だったのだけれど(年齢がぁ…)。ドイツミステリは苦手だ。

2013年7月9日火曜日

近況報告

国際演劇研究集会IFTRのための原稿。今1500語、あと1000語くらい。文章ができたらパワポ化して、一曲初音ミクに歌わせて、写真挿入文献補う。
現地の報告を赤旗さん向けに1000字くらいで行わねばならないが、それは帰国後のこと。
現地の宿、飛行機、ようやく手配を終えた。
15日、赤旗で取り上げるこまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」鑑賞予定、それまでにそれに関する日比野さんの論文読まなきゃ。原稿メ切は16日いっぱいか。
18日は補講三つ。19日は通常講義三つ。9.16は非常勤@中野坂上。
参院選期日前投票もいつかしなきゃ。
このタイミングで一番みたくないものは、

三年以上待ち続けたフロストシリーズの新作。「冬のフロスト」,

今日本屋で見つけてあろうことか今目の前にある。

飛行機が離陸するまで、ぜったいに手を伸ばしちゃダメな、麻薬を前にした治療中の中毒患者のような気分だ(患者の気分をミステリ以外で知っているわけではないが)。
せめて解説だけでも読んで心の準備をしたい…。(数分後)
誰だ、読んでないの丸出しの養老孟司なぞに解説書かせたのは⁉!
目の前に多分一番好きなシリーズの残された数少ない初訳があってぜったいに読めない状況があるなんて…
。・°°・(>_<)・°°・。。

-- iPhoneから

07/11追記:ようやく2000語。「冬のフロスト」にリンク。学会発表のテーマは東大ギリ研の悲劇上演。日比谷野音の説明がむずい。タイトルを「起源に本質を捏造する」ってしたのになかなかその話にならない。タイトルが挑発的すぎた。
フロストは性格と頭の良いドーヴァー警部だ、と書こうと思ったのだけれど、考えればドーヴァー警部シリーズもう忘れられてる…

2013年6月28日金曜日

レヘインの「夜に生きる」

デニス・レヘインの『夜に生きる』を読みました。レヘインのベスト、とは言えませんが、淡々としたハードボイルドは面白いです。今年読んだミステリのなかでは、ル・カレの「我らが背きし者」、コナリーの「かかし」、ダフィの「KGBから来た男」の次に面白かったです。レヘインは、ワンパターンになる前にシリーズを終えるという、あまり出来ない離れ業が出来るひとで、シリーズ外にも傑作の多い作家(「シャッター・アイランド」と「ミスティック・リバー」)です。シリーズのパトリックとアンジーのカップル探偵ものは、雰囲気も主人公のパターンもロバート・パーカーのスペンサーシリーズととてもよく似ていながら、スペンサーよりも重厚で骨太のハードボイルドを作り出したのにも驚きました。勿論、スペンサーシリーズは、ワンパターンなプロット(主人公たちは悪党に嫌がらせをし、相手が手を出すのを待って皆殺しにする)と、チープと言って良い程の主人公の万能感は欠点ではなく魅力になっているのですが(一度だけ瀕死の目に遭います)。シリーズの締め方も完璧です。
このシリーズは、正義観が最後まで一貫しているところも素晴らしい。コナリーの「ボッシュ」シリーズは途中で一旦ぐたぐたになってしまうのに、彼らはそんなことはない。彼らは万能ではなく、そのことに納得して引退します。それが敗北ではなく、シリーズのなかで一番苦いエンディングを迎えた作品(『愛しき者はすべて去りゆく』)で揺らいだ自分の正義へのけじめになっているのが良いです。
今回の作品はパトリックアンドアンジーではなく、「運命の日」に続くコグリン兄弟を描いたのピカレスクロマンですが、「運命の日」と直接結びつくわけではないです。「運命の日」の長男ダニーが警官なのに対して「夜に生きる」の三男ジョーはギャング。多分次男を描いた作品がそのうち出るのでしょう(次男は映画界にいる設定です)。ここでも主人公は自分なりの正義の意識を確立し、なんとか貫きます。主人公の成長を描くという意味では典型的な教養小説です。ラッキー・ルチアーノも登場する禁酒法時代末期のギャング小説(主人公はずっとアウトローだと自己規定していますが、ある事件を機に、自分でも「ギャング」となります)ですが、ライバルや法秩序の側があまりに非道いので、私たちは主人公への共感を失わないで済みます。エンディングの苦さは教養小説の定番であると同時にノンシリーズのレヘインのいつもの魅力そのもの(「ミスティック・リバー」の苦さに近いかしら)。

(さいしょフェイスブックに書くつもりでですます調にしていたのが残った。なお、シリーズで劣化が激しい作家の一番に誰もが挙げるのは多分スティーブン・ハンターの「スワガー・サーガ」だろう。さすがに最近は買わなくなった。ジャック・ヒギンズもそう、というか、「鷲は舞い降りた」「死に行く者への祈り」の二つが例外的に素晴らしかった気がする。マイク・コナリーのボッシュは長いシリーズで主人公がだんだん高齢化して行くのに質を維持しているのが素晴らしい。リーバスは三作目から良くなり、上げ下げがやや大きい。リンカーン・ライムは二つ目からワンパターンだ。なぜ全部買ってしまうのだろう…)

2013年6月22日土曜日

メディアマシーン

柴崎正道プロジェクト公演。岸田理生作。
柴崎さんは10年前に死んだ岸田理生の仲間だったらしい。
クナウカのメデイアで使われていた、「これはメデイアではない」はこの作品からの引用だったのか。ハイナー・ミュラーだとばかり思っていた。
演劇学会を途中抜け出して中野まで行って鑑賞。身体の動きは完成に近いと言って良さそうな人たちだ。ダンスにそれほど詳しくないものの目には、姿勢のアンバランスと痙攣的な動きのリアリティ、指への関心、左右の非対称性など、十分に九十年代以降のものに見える。とくにリアントさんのエキゾチック(ポストモダン的引用)と坂本さんの滑らかさに感銘を受けた。二人の旅人はオレステスとエレクトラに見える。
ただ、グランドピアノ一個で即興的に演奏されるクールなフリージャズ風の音楽(どう考えてもせいぜい60年代の音だ)との落差が激しい。せめてピアノの音をもう少しノイジーな感じで、たとえばプリペアド・ピアノにするとずいぶん変わると思う。また、動きと音楽をあわせすぎに見えた。もう少し無関係にする、あるいはせめてずらさないと、動きが予定調和的に見える。
台詞を喋り出すと途端に退屈になるのは、演技の調子の幅がとても狭いからと、台詞自体が陳腐なのが大きい。説教くさい。
最後の台詞が、「Quo vadis domine? 我らどこからきてどこへ行くのか?」の二度の反復なんだけど、ひょっとしてクォヴァディスってその意味だと思ってないか?少なくともラテン語知らないお客はそう思うぞ。演者(作者?)もそうだとしたらずいぶん恥ずかしい勘違いだし、そうでないとしたら、訳が分からない。もちろん、「主よ、あなたはどこへいらっしゃるのですか?」の意味で、この言葉の文脈はググればすぐ分かる。シェンケヴィッチの小説は子供の頃の愛読書だった。(一方で中野重治やぬやまひろしの詩を、他方でシェンケヴィッチを、さらにもう一方でアリステア・マクリーンを子供に与える親はずいぶん変わった人たちだったとは思う。一番影響を与えたのは「女王陛下のユリシーズ号」だったが…)。


ヴェネチア・ビエンナーレ2013(山口大学の藤川哲さんのブログ)

この夏、バルセロナでのIFTR(国際演劇学会)での発表の後ローマでex Pink FloydのRoger Watersを見て(懐かしのThe WALLだ。映画が日本で最初に公開されたとき、大阪から東京に見に行って(なぜだろう、大阪でやっていなかったのか、東京で美学会の全国大会のついでだったのか)、一日中、三回見た。去年も吉祥寺で爆音上映を見た)、それからヴェネチアへ行こうと思っている。その感想をまたちまちまブログで書こうかと思っていたのだけれど、山口大の藤川先生のブログで、とても強度のある、同時に詳細な紹介がアップされていたので、これを見れば、そして何らかの形で画像が手に入れば、わざわざ行くことなくね?という感じの調査および分析を見た。すごいので紹介。

山口大学美学・美術史研究室:So-netブログ (2013年五月末頃から)

まあ、もう飛行機のチケットも買ったし大学にも届け出したので行くけれど、このブログで書けることはないなぁ。(ちょー個人的な感想は書くと思うけれど)。ウォーターズ👴はやっぱり見たいし。

藤川先生はこれまで二度、わたしがヴェネチアへ行くとき、いろいろと手助けをいただいたし、去年カッセルへ行ったときにも本当にお世話になった(現地で会った、という意味ではない)。あのブログには、カッセルのことも、二年前のヴェネチアのことも徹底的に分析・報告されていて、まあ、すごい。

The WALLは、子供の頃父親が戦死していじめにもあったピンク・フロイト少年が長じてロッカーになり、不幸な結婚の結果おかしくなって極右のミュージシャンに変身するって話だけれど、極右になったピンクのヘイト・スピーチが、極右になったエリック・クラプトンのヘイト・スピーチ(これは実話)を元にしているのが丸わかりで、それはとても面白かったけれど、当時そのこと誰も教えてくれなかったなぁ。クラプトンのファンだったことがなくて良かった。

映像的には、ゲルドフが演じていたピンクよりも、ウォーターズのベルリン・ウォールコンサートでのそれが格好良かった気がする。よくまあベルリンであのコンサートやれたものだ。

楽しみ……

2013年6月20日木曜日

演劇学会大会パワーポイント資料

今週末、共立大学で演劇学会全国大会があり、そこで、「復讐劇」を主題のシンポジウムに参加することになりました。パネルの正式タイトルは「演劇における復讐の想像力に関する比較研究」で、わたしの担当はギリシア悲劇における復讐のイマジネーションみたいなことです。土曜日の十時からで、他のパネルの皆様は大阪市立大学の小田中章浩さんと日本橋学館大学の安田比呂志さんです。

とりあえず今日の時点でのパワーポイント資料が出来ましたので事前公開します。明日もう少し修正を入れるかも知れません。

大会プログラムのPDF
パワーポイント資料

2013年6月13日木曜日

黄金の馬車(赤旗劇評)

SPACの「黄金の馬車」の劇評を赤旗に書きました。
なんか最後のパラグラフ宣伝っぽい文章になった。

2013年6月10日月曜日

ベルリン・フォルクスビューネ 「脱線!スパニッシュ・フライ」

夏にヴェネチアへ行く前に、出来るだけ11年と09年のヴェネチア・ビエンナーレの作品の感想をあげたいのだけれど、なかなか時間が取れない。それと、記憶が新しい12年のドクメンタの方が先になってしまう。今日のアップも別の話題で、静岡のふじのくにせかい演劇祭で土曜に見た「スパニッシュ・フライ」について。SPACの「黄金の馬車」も同じ日に見たのだけれど、これは『赤旗』に書いたので、それが出てから。
「スパニッシュ・フライ」はもともと100年程前の喜劇で、「スパニッシュ・フライ」は催淫剤の原料になった昆虫の名前で、催淫剤の名前にも転用された。今回、演出のフリッチェはsを括弧に入れて「パニックの」という意味のpanischeを浮かび上がらせる。「脱線!スパニッシュ・フライ」はそっちの方には良い訳だ。「スパニッシュ・フライ=催淫剤」の意味が日本では一般的でないので、なぜ主人公(の一人)が昔の女のことをスパニッシュ・フライと呼んでいたのかが見ている間は分からなかった。
昔の愛人との隠し子がやって来たと勘違いした男がそのことを誤魔化そうとじたばたあがく、というどーでもいー内容の喜劇なのだけれど、それを演技と演出の仕掛けで笑わせ、見せようとするお話。トランポリンを利用した各演技者の動きが半端ではなく強いので、パニック的でヒステリックな笑いは存分に楽しめる。言語的なギャグも満載されているような気がするのだけれど、そちらの方は分からない。奥さんがルートヴィヒという名の夫のことを「ルードヴィシュ」と発音していたのがどんなニュアンスを持つのか、方言ネタも分からない。一番近い舞台経験は新喜劇だと思うけれど、動きははるかに激しくアクロバティックだ。そこはとても面白かった。絨毯の下に押し込むとか、言語的なギャグに由来する動きもまあ面白かった。新喜劇なら個人の持ちギャグとして保存されるネタが、この芝居のためだけにつくられ消費されているのも贅沢な感じで面白い。
でも、面白さの多くの部分は、普段こんな芝居をしない人たちが超スピーディに新喜劇ギャグをやっている、という点にあるのだとも思うのだけれど、その辺は日本では分からないのが残念。隠し子と間違われる青年が時々差し挟む「えー?」って言う言語ギャグはとても効果的だった。東野幸治の感じかなぁ。こわい奥さんはある時期の中山美保だ。コメディア・デラルテ以来の伝統ギャグもいくつも使われているのだろうけれど、私に分かったのは飛んでいるハエを食べるやつだけ。
舞台は大きな絨毯が一枚、少し高くなった台から舞台全面に拡がっているだけ、絨毯の一部はトランポリンになっていて動きにアクセントをつけている。ギャグ以外での登場人物の動きは構成主義的(どう見てもブレヒト的じゃない←ポストパフォーマンストークで、「ブレヒトの影響は?」って聞いてた人がいた。リアリズムじゃなきゃ何でもブレヒトって思わないで)。ライトの使い方もそうだ。ほぼ二時間の芝居。「どんな内容でもやり方で芸術作品になる」ってのはロシアフォルマリズムの基本原理なので(「手法としての芸術」)、その伝統に則った舞台。

2013年6月5日水曜日

燐光群「帰還」

病院に付設された養老施設で暮らす老画家、横田正(藤田びん)のもとに、長く会わなかった息子昭信(猪熊恒和)が訪ねてくる。息子は、自分が末期ガンであることを告げるとともに、美大をでた自分の娘に絵を教えてくれるよう父親に頼みにきた。あまり気乗りがしない様子で孫娘に会う正。何気なくつけたテレビを見て叫ぶ。「戻らねば。約束を果たさないと。」
正が孫娘の運転でやって来たのは九州のある山村。テレビに写っていたのは、ダム予定地の村に暮らす麻里。彼女を除いて全ての村民はあるいは代替地に移り、あるいは代替地で暮らして行けず村を離れた。彼女一人が土地の明け渡しを拒否しほとんど自給自足で暮らしている。正に会った麻里は、彼の「帰還」をずっと待っていたと語り、彼らは近隣の村人たちをも巻き込み、ダム反対運動に新しいうねりを加えて行く。

以下はネタバレになるかなぁ。これから述べるのは、簡単に言うと、「主人公への批判的視点が足りないよね」ということに過ぎない。でもこの欠如は私には堪えたので一通り文章化してみる(以下、公演期間中は白文字にしていたものを復元)。

実は正は60年前、共産党の武装革命方針に基づく山村工作隊員としてこの村に潜入し、山林中心でほとんど耕作が行われていなかった村に個人で可能な農業技術を伝え、畑の開墾の先頭に立って地主をも含む村人の信頼を得、ダム問題の対策をも伝えて村を去っていった。彼がこの村で一緒に暮らしていた大野すえは彼の教えを娘の麻里に伝え、娘はその教えをずっと守ってきたのだ。

 枠組みとなっている物語はアンゲロプーロスの「シテール島への船出」で、作劇のスタイルはブレヒトの教育劇だと思われた。村人たちは、まるでコロスのように、ダム問題の歴史を台詞を割りあてて分かりやすく伝えて行く。観客はありそうもない物語に乗っかった上で、ダム問題についての認識を獲得して行く。このあたり、坂手の作劇法は最近図式的すぎないか?

この作品と「シテール島への船出」とが関係ありそうだという評論はなさそうなので、この点については説明。アンゲロプーロスの映画では、 ギリシアの民主化に伴い、ソビエトに亡命していた共産党員が帰国することになった。彼は故郷に帰還すると、観光業者に村を売り渡そうとする村人たちの大勢に抗して畑を耕し始め、特に内戦時代に血で血を洗う抗争を行った村の有力者と対立する。映画では、結局彼はギリシアをふたたび追放され、行く当てのない船出に立つことになるが、この芝居のエンディングは、初演時民主党政権下でダム計画の凍結があったためか随分と楽観的だ。

でも私には、つまらないノスタルジーが本作を(たとえ三年前だとしても)台無しにしているように見えて仕方がない。

新国立劇場の「エネミイ」は、「三里塚闘争」を現在の地点からノスタルジーにおいて正当化し、そこにあった非道、無慈悲を無化し、現在の世代にその視点から説教するひどい芝居だった。この連中の現在を思うとき(猪瀬が信州大全共闘議長だったことを忘れてはならない)、私たちはもはやこの手の芝居を受けいれられない。また、文革の悲惨を思うとき、私たちはもう60年代のマオイストが知ったかぶりを言っている芝居を受けいれられない。それは、50年代のスターリニストが社会主義の未来を語るのと同じくらい欺瞞的だ。

で、この芝居では、私たちにとって何とか受容可能なグルとして、50年代共産党臨時中央委員会(臨中)派のアーティストを持ち出してくる。(「臨中派」と書いたが、末端の党員のほとんどは臨中派だったと思う。)そしてその中でも、純粋な革命の理念に燃えて農村に潜った山村工作隊を持ち出してくる。彼のイデオロギーはこの芝居の中では全面肯定だ。このイメージが少しなりとも肯定的にとらえうるのは、私たちが彼らの非道と悲惨についてもはや十分な知識を持っていないからに他ならない。搾取からの解放を理想とする若者にとってその当時他にどうしようもなかったとは言え、彼らが代理しているのは二十世紀後半に最大の苦しみをもたらしたイデオロギーの一つだ。当時それを信じたのは仕方がない。今それを回顧的に正当化するのは最大の欺瞞だ。私はごく身近な身内が山村工作隊で「球根栽培法」所持で捕まって警察署内のトイレに隠して難を逃れたこともあるし、正と麻里の母「すえ」の仮想の会話は子供の頃の日常会話のターミノロジーと同じなので当時の主観的な正当性はよく分かる。60年前、純真な若者はあんなことを信じていた(農村から都市を包囲するとか、武力革命とか)。いまそれを反復するのはグロテスク以外のなにものでもない。

アンゲロプーロスは、武装闘争時代の生活の細部が現代に甦る(両方の側にとっての)悪夢を悪夢として描き出した。ここではそれは「夢」だ。五木の反ダム闘争は素晴らしい成果を上げてきた。巨大ダムが自然を、共同体を破壊することも、それに対する闘いの意義も今なお変わらないがゆえに過去のこの美化は痛い。

2013年5月31日金曜日

ごたまぜの面白さ〜山の手事情社の「道成寺」

山の手事情社の「道成寺」を見た。この夏の「ヨーロッパ三大演劇祭」の一つ、シビウ国際演劇祭での公演のゲネプロだそうだ。稽古場での「公演」だが、実際には山の上の教会で、舞台上に鐘の作り物をつけての上演らしい。
とても面白かった。安珍清姫の説話は幾つかの異版があるが、娘ヴァージョンと寡婦ヴァージョンの両方を舞台化する。また、その後日譚の「鐘供養」物語も白拍子の出てくる能の話の他に郡虎彦のおどろおどろしいヴァージョンも舞台化し、物語圏の持つ広がりを90分に収めようとしたのは意欲的だ。一番有名な白拍子の話がきちんと回収されなかったけれど他の物語はほぼ最後まで示される。
上演も、語り口や動きが様々なスタイルのつぎはぎを徹底化しているのが面白い。今昔そのものの語りはいま風の感情表現と接続され、新喜劇のようなコミカルな動きは時代がかった見栄と接続される。昔『オイディプス』を見たときも、複数様式の並列が面白いと思ったのだけれど、この舞台ではそれが徹底的に「多数化」されていた。能・狂言・歌舞伎・新劇・アングラの動きの特徴が、ぎゅっと詰め込まれている。勿論、一つ一つの様式の完成度はとても高いというわけではないし、またそれが目指されているわけでもない。ある種の「見本市」的な舞台で、そのニュアンスがどこまでルーマニアで通じるかは分からないけれど、日本人としては納得の面白さだ。アフタートークは、「女の人こわい」以上の意味がない話を「女性原理」とか言い出した時点で聞いていても仕方がないと思い退出。
ラスト 黒い桜の花が舞うのだけれど、桜だと思わなかったorz

さて、今年日本ではシビウ国際演劇祭を「ヨーロッパ三大演劇祭」と呼んで持ち上げるのがはやりみたい。今年のプログラムを見たら、期間は一週間ほど(六月七日から十六日まで)だけれど朝から晩まで何かしらやっているのが素敵ななかなか盛んな演劇祭。海外からの参加は半分くらいじゃないのかしら。2007年が一番規模が大きく70カ国から2500人のゲストがやって来たらしい。楽しそうだ。

2013年5月29日水曜日

LOVE展〜森美術館

「愛」をテーマに、二十世紀以降の作品を中心に集めた企画展。会場の入り口前のバーバラ・クルーガー、入ったところのロバート・インディアナ、ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハースト、トレーシー・エミンなど、ポップ・アート、ヤング・ブリティッシュ・アートの大物作家のお洒落な作品で心を掴み、あとはこじつけっぽいものも含めLOVEにまつわる幾つかのテーマにあわせてそれなりの作品を集めたもの。芸術の多くは何らかの形で愛に関わるだろうから、作品の選び方にそれほどの面白さは感じられない。とてもオーソドックスだ。デ・キリコの「ヘクトールとアンドロマケ—の別れ」、ロダンの「接吻」、マグリットの「恋人たち」、シャガールの……。
展示された作品にはそんなに「やばい」ものはない。どれもお洒落でおとなしいもの。トレーシー・エミンはコーナーの入り口ごとに幾つも展示されているけれど、よくこんな当たり障りのないものを集めたなぁと思ってしまう。(自慢すると、2011年のヘイワードギャラリーでの彼女の回顧展に行きました。)
驚くべきは、同性愛をテーマにした作品がほぼ皆無だったこと。気づいたのは、レズビアンの作家の作品が「広がる愛」コーナーにあったのと、浮世絵に若衆ものがあったのくらい。館長で企画者の南条史生氏曰く
最後の章は「広がる愛」というテーマで展開します。男女の愛だけではなくて、同性の愛、物に対する愛、国に対する愛、コミュニティに対する愛、そういう様々な愛の解釈を紹介します。現代においては愛もこのように多様な広がりを見せている、ということを描けないかと。(http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/lovelove-4480.html)
とまぁ、突っ込みどころ満点のお言葉。同性愛は広がりではないし、どれも現代関係ないよね。
2010年の東京写真美術館の「ラブズ・ボディ〜生と性をめぐる表現」がほぼ全面(男性)同性愛だったことを思い出した。それもどうかと思ったけれど、こちらでの同性愛の(ほぼ)「不在」は控えめに言ってグロテスクだ。
「愛ってなに?」「恋するふたり」に続く第三のコーナーが「失われた愛」で、ここではソフィ・カルの「どうか元気で」が見応えたっぷり。「どうか元気で」で終わる別れの手紙を受け取った彼女が、その手紙を多くの女性に見せ、彼女たちがそれに様々な形で応えるのをヴィデオにしたり、写真作品にしたりしたインスタレーション。射撃の選手が手紙を的に撃ち抜くのが面白い。ソフィ・カル知らなかった。原美術館でいまやっているのか。元恋人の会田誠に殴る蹴るの暴行を加えるのを映像化したTANYの「昔の男にささげる」とともに印象的。ただ、TANYのヴィデオは、鉄パイプがあまり当たっていなかったのが残念。
展示の中で最大の衝撃はダリの巨大な聖母子像だった、というか、それがローリー・シモンズのほぼ同サイズの「ラブドール」着せ替え写真と同じ壁面で並んでいることだった。ここの写真が撮りたかったなぁ。こう言う無神経さは大好きだ。
日本以外の非欧米作品に切実で力強いものが多く、それは大きな収穫。シルヴァ・グプタのネオン作品は感動的、ゴウハル・ダシュティは戦争と日常のシュールな併存が面白い。ロバート・インディアナをぶちこわしたギムソン・ホックの「LOVE」もメッセージがダイレクトに伝わる。シリン・ネシャットの息の詰まりそうなヴィデオ「熱情」も素晴らしい。
なんかがっかりなのが初音ミクコーナーで、なぜここでミクの単なる紹介ビデオが流れるのか分からない。誰かがこの展覧会のためにミクで何かするのが流れるとばかり思っていたのに…紹介ビデオも、数年前のまだアナーキーだった頃のニコ動をまるで現状のように「良いなぁ」って言っているものだったし(全部見てないのだけれど)。とってつけた感が半端ない。

2013年5月26日日曜日

リン・フォルケス(Llyn Foulkes)『 失われたフロンティア (Lost Frontier)』Documenta (13) 他

リン・フォルケスは1934年生まれのアメリカのアーティストで、音楽家でもある。『失われたフロンティア』を見て、なんかミッキーの顔がどこかで見たような…と思っていたら、前年のヴェネチア・ビエンナーレのメイン・パヴィリオンのエキシビション(ジャルディーニにある国別じゃない展覧会)に作品が展示されていた。そのときの作品は、いかにもな政治風刺的ポップアートで、それほど印象に残らなかった。『どこで間違えたのだろう(Where Did I Go Wrong)』(1991)『大統領閣下(Mr. President)』(2006)の二つは、湾岸戦争の開戦を告げる新聞を手に「どこで間違えたのだろう?」と自問するスーパーマンと、一ドル紙幣のジョージ・ワシントンの肖像画にミッキーの顔をつけたもので、コンセプトは明白だけれど、面白いのかしら?そう言えば、スーパーマンのモットーは「真理と正義とアメリカンウェイ」だった。スーパーマンの間違いは、アメリカンウェイの間違いでもあった。
しんぶんの小見出しに
「クウェート」の文字が見える。
一ドル紙幣のワシントン



Documenta (13)では、フォルケスは音楽家として、自作の楽器を使ってパフォーマンスも行った。それは見ることができなかった。幾つかyoutubeにアップロードされているが、面白いけれど、そんなに前衛的だというわけではない。

造形作品は暗い部屋に鑑賞者から数メートルの距離をおいて二つ展示されていた。特に、『失われたフロンティア』は、『大統領閣下』と同じ、ミッキーの顔をつけた兵士(なにか民族衣装をつけているように見える)が廃墟のように荒れたロスアンジェルスの街を望む高台に立っている風景だ。手前には死んだ山猫、二人の男が描かれている。写真だとこの作品はいかにも立体ぽく見えるのだけれど、実物は、数メートル距離があるので、最初私は普通の絵だと思ってしまった。こちらの移動につれてホログラフィのように形が微妙に変わるので立体だと気づいた。とても手をかけた(1997-2005)、そのことに感動してしまう作品。もう一つの「目覚め(Awakening)」(1995-2012)は老いた夫婦の寝室が描かれているが、これもミクストメディアの立体作品だ。グロテスクなユーモアは、作者がそろそろ80才になると考えると、荘厳なおそれをおびる。
少し距離を置いて見させられるので、ややフラストレーションを伴いながら細部を確認するという見せ方の仕掛けのせいかもしれない(私は双眼鏡を取りだしたもの)けれど、メイン会場の絵画っぽい作品の中では一番見応えがあった。


Foulkes 失われたフロンティア
Foulkes目覚め

2013年5月24日金曜日

タマラ・クヴェシタズデ (Tamara Kvesitazde) F=-F (ヴェネツィア・ビエンナーレ2011)

2011年ヴェネツィア・ビエンナーレのグルジアの展示は、Tamara KvesitazdeのF=-Fを中心においた「どんなメディアでもAny-Medium-Whatever」と題されたもの。独裁体制であれ民主体制であれ共通の軍国主義への反対と平和へのメッセージを込めた作品のようだ。
軍国主義は個性の抑圧を伴う。グルジアの展示で目に焼き付いたのは白い無表情な顔の集まり。一つ一つの顔はほぼ等身大で、色彩を欠いた人面の怖さと反復の不気味さが「表情のない」軍隊の不気味さと重なる。言われてみるとある意味分かりやすいが、解説がないと「軍国主義」云々は想像がつかない。
顔が集まって球体を構成している作品と「フレスコのような」(カタログ)パネルになっている作品の二つがあった。パネル作品では、その無表情な顔の一つ一つが微妙に変化してゆくことで、不気味さは、悪夢を見ているかのようなおぞましさの領域まで達していた。
Kvesitazde Any-Medium-Whatever

Kvesitazde F=-F

Kvestazde F=-F (detail)
video

2013年5月22日水曜日

Ecto3とBlogger

愚痴

Bloggerは、素人がほとんど何の努力もせずにブログを作れるし、写真も最初に設定していればLightbox風エフェクトが自動でかかるので、とても便利で、自分の本来のサイトの更新を全くしなくなった。更新も、ダッシュボードからさくっと書けば良いし、写真の挿入だけがIPhotoから一手間かけて写真ファイルを一旦どこかに保存しなければならないことを除いては何の不満もない。
ただ、何となく、オフラインで予め書いたものを後でアップロードしたいと思うことがあり、また、写真が直接iPhotoからブログに取り込めたら良いなあと思ったりもして、ブログ編集用のソフトを探し、marseditとecto3のどちらか、というところまできた。Marseditはなぜかbloggerへのログインができず(BloggerのIDとパスを入れても、GoogleのIDとパスを入れても通らない)、ecto3をレジストした。
で、ecto3は複数の写真を一括でiPhotoから取り込めて、投稿出来るんだけれど、なぜかLightboxエフェクトが効かなくなる。ぐぐって調べても、古い情報しか出てこず、Bloggerに元から備わっているLightboxエフェクトを有効にする方法が分からない。結局、ecto3で投稿した後で、写真のためにもう一度ダッシュボードで編集し直している。

なにか良い方法はないのかしら。とても間違ったやり方をしているような気がしなくもない。

2013年5月21日火曜日

マイケル・ラコウィッツ(Michael Rakowitz)『どんな塵が立ち上がるだろうWhat dust will arise』Documenta (13) 2012

個人的にメイン会場で一番印象が深かった。

ラコウィッツの『どんな塵が立ち上がるだろう』というタイトルは、アフガニスタンの諺「一人の騎手からどんな塵が立ち上るだろう」に由来するもの。1941年9月の英軍の空襲によって破壊されたHesse-Kassel地方図書館の本を、アフガニスタンのTravertine石(石灰華)で再現したもの。メイン会場のFriedichcianumはその図書館跡に建設された。

一度失われると戻ってこない文化遺産への濃厚な哀切に満たされる作品。 勿論、その背景には、アフガニスタンのハザラの石仏破壊、アメリカの侵略後のバグダッドの博物館の惨状が念頭に置かれている。

過去は破壊されて失われることで私たちにとりつく。

本の破壊と言うと、私は、二年前の三月十三日に見た映画「アレクサンドリア」でのアレクサンドリア図書館の破壊のことを思い出してしまうのだけれど……







2013年5月20日月曜日

タシタ・ディーン(Tacita Dean)『疲れFatigue』〜Documenta(13)

ドクメンタ13の一つの大きな特徴は、非欧米への入れ込み、とりわけアフガニスタンとの連携だった。その理由とか調べなくちゃ、とおもって結局果たせなかったが、カブールにサテライト会場を設け、カッセルのメイン会場でも一番大きな作品の一つがカブールとの共催作品(Goshka Macugaの 「存在するものについては存在することの、存在しないものについては存在しないことの」←タイトルはプロタゴラスの引用で、「全てのものの基準は人間である」という言葉に続く)だったし、Lida Abdulの「私たちが見落としたもの」もカブール生まれの作家がカブールで撮ったヴィデオインスタレーションだった。

ディーンの「疲れ」もカブールとの連携の結果生まれた作品で、彼女はカブール在住のカメラマンにカブールの様々な場所の映画を撮るように求め、それを元に作品を作ろうとしていた。フィルムが駄目になったせいでそのプロジェクトは実現しなかったが、幾つかのコマから発想を得て作られたのがこの作品だ。カブール川の洪水や雪解けがテーマにされている。

面白いのは、これが黒板にチョークで書かれた作品だということだ。絵画の一番大切な特徴である持続性をかなり犠牲にして、彼女はむしろこの作品で一回性、はかなさを強調する。常設会場ではなく旧税務署の廊下に黒板は据えられている。また、rain riverなどの絵を描く前に書かれた言葉も残されている。

私がカッセルを出る日の前夜、山口大学の藤川先生が メールで勧めて下さったので午前中に見に行ったのだけれど、とても迫力があった。

Dean Fatigueより(1)

Dean Fatigueより(2)

Dean Fatigue細部

Dean Fatigue細部(2)

サーニャ・イヴェコヴィッチ「不服従者(革命家)」Documenta13 (2012)より

2009, 2011年にヴェネチア・ビエンナーレを見ることができ、2012年にカッセルのドクメンタ13も見ることができたので、そのなかで興味深かった作品を順不同で幾つか紹介したい。
クロアチアの作家、サーニャ・イヴェコヴィッチの「不服従者Disobedient (Revolutionaries)」は、ガラスケースに陳列されたロバのぬいぐるみから構成されている。この作品をインスパイアしたのは、1933年のHessissche Volkswachtに掲載された写真付きの新聞記事で、それは「頑固な市民のための強制収容所」というタイトルと、「ユダヤ人の店での買い物を避ける必要性の証明」とキャプションがついている。ロバは「間抜け」や「頑固さ」の象徴だ。
陳列ケースは、様々な市販のロバのぬいぐるみと、名前のプレートから構成されている。

ミラベル姉妹、ヴィクトル・ハラ、ベンヤミン、

ドイツの赤い薔薇、ローザ・ルクセンブルクは赤い花を口にくわえている。フレッド・ハンプトン、キング牧師

パウル・ツェランの横には浅沼稲二郎もいる。グラムシ、ショル兄妹

それぞれの名前の説明を彼女はDocumentaのウェブサイトに投稿しているが、それらは英語版のWikipediaから採られたものだ。
http://d13.documenta.de/research/assets/Uploads/IvekovicA4AusdruckeENG.pdf
Why is Sonja Ivekovic Plagiarizing from Wikipedia?
悲痛さとユーモアを兼ね備えた素敵な作品。

2013年5月16日木曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(4)

第八章は「諸芸術の上演」と題されている。私は第九章の「文化上演」には、芸術的上演と非芸術的上演の区別という問題にしか興味がないので、読書ノートもようやく最後になる。この本に関して自分で読める内容は読み終えたと思うので、土曜日は他の人の意見を聞くことに専念しよう。Tsudaる感じであとでブログにアップしても良いかも。

他のあらゆる諸芸術と異なる演劇の特徴として、彼女は「演劇[が]それらの芸術を自分の中で一つのものにし、自分の目的のために利用することができる」(232)という点を挙げる。だからこそ演劇学は常に学際的だ.

この主張は常識的にもっともだ。お芝居の中には音楽も使われるし背景画もあるし、様々な装置や小道具もある。つまり三次元芸術も用いられる。厳密には、芸術としての料理は演劇にはおそらく用いられることはないし、ランドスケープ・アートも難しいだろうが、そこまで言うのは言いがかりだ。彼女が言うのは演劇の中に利用され得ないジャンルはない、ということであって、演劇の中に利用され得ない作品はない、ということではない。そしてこの場合のジャンルは、かなり広く理解すべきだ。細密画は演劇に利用できない(お米に書いた書も)けれど、細密画も絵画であり、絵画は利用可能だ。むしろ、問うべきは「それは演劇を他のあらゆる諸芸術と異なったものにするのだろうか?」という点だ。どのような芸術ジャンルであっても他のどの芸術ジャンルをその一部として利用することが出来るのではないか?音楽と絵画の総合芸術は必ずしも演劇ではない。

諸芸術の上演が必ずしも演劇であろうとなかろうと、演劇が歴史的に諸芸術の上演への傾向を内在し続けてきたことは確かだ。フィッシャー・リヒテはそれを二つの極によって分析する。
もし階層化を全く行わずに、あらゆる芸術を平等に演劇上演に関与させようと試みるならば、それは多様な芸術が緊密に相互作用するという結果をもたらすか、さもなければ、平等という点は同じでも、【多様な芸術が】見たところ全く関連なく併存する状態をもたらすかのどちらかである。(略)もちろんこれは両極端であり、それらの中間に多くの別の実現形態がある。(233)

前者がワーグナーであり、後者がケージだ。ワーグナーの総合芸術論は有名でもありフィッシャー・リヒテの紹介も常識的なのでパスして、ケージに関しては1952年の『題名のないイヴェント』が挙げられている。これは「ケージが1952年に(略)ピアノストのデイヴィッド・チューダー、作曲家のジェイ・ワット、画家のロバート・ラウシェンバーグ、舞踊家のマース・カニンガム、そして詩人のチャールズ・オルセンおよびメアリー・キャロライン・リチャーズとともに、ブラックマウンテン・カレッジの食堂で行ったもの」(236)で、各アーティストは時間指示だけを与えられ、好き勝手にその時間を満たす。カニンガム(この表記は嬉しい)カンパニーの売りの一つにもなった「コラボレーション」だ。フィッシャー・リヒテのこの上演の記述は、並列的で、それぞれの間に関係がなかったことを示している。ちょっと長いが引用。
ケージは、黒い背広にネクタイを締め、脚立に乗って、音楽と善についてのテクスト、それにマイスター・エックハルトの文集からの抜粋を読み上げた、続いてケージは、「ラジオ・コンポジション」を演奏した。それと同時にラウシェンバーグは拡声器付きの手回し蓄音機で古レコードを流した。その脇では犬が—ドイツのグラモフォンのレコードジャケットそのままの姿で—座っていた。デイヴィッド・チューダーは「プリペアド・ピアノ」を操作した。その後彼は、バケツから水を別のバケツに注ぐということを始めた。その間、オルセンとリチャーズはある時は観客席の真ん中で、ある時は短い方の側壁に立てかけられた梯子から、自分たちの詩を朗読した。カニンガムは通路で、また観客席を通り抜けながら、他のダンサーらとともに踊った。それを、今やすっかり混乱した犬が吠えながら追いかけた。ラウシェンバーグは、天井および長い方の側壁の一つに抽象的なスライド画像(これは二枚のガラス板の間に着色ゼラチンを入れ摺り合わせて作りだしたもの)を投射した。また、断片的な映画も投射した。それは最初は食堂のコックを映し出したものであり、その後、映像が天井から次第にもう一つの長い方の側壁に移動するにつれ、落日を映し出すものとなった。空間の一隅では作曲家のジェイ・ワットが、観客をいささかエキゾチックな気分に誘う様々な楽器を演奏していた。四人の白い服を着た若者が観客たちのカップにコーヒーを注ぎ—それも、彼らがカップを灰皿に用いていようがお構いなく—それで上演は終わった。

この上演では、多様な芸術の出会いを通じて、それぞれのメディア性と記号性が刺激を受けたことに疑いの余地はない。
<脱線>フィッシャー・リヒテが九歳の時に行われたこの上演を彼女が観て分析したとは思えないが、出典は欠けている。この段落は歴史記述からの逸脱を殆ど示さない(「すっかり混乱した」「エキゾチックな気分にさそう」はやや怪しい)が、次の段落で次のように言われるとき、語られているのは三人称現象学そのものだ。
観客の注意力は、それらの人工物としての性格ないしテクストとしての性格からは逸らされて、それらによって何が行われたということ(略)に向けられた。観客たちは(略)には専念できず、その代わりに、(略)を目で追わねばならなかった。

……ここではどの観客も自分自身の上演を作り出さねばならなかったため、そこから発した美的経験もまた、全く特別なものだった。 (238) 
これが悪い、というのではなく、歴史記述にこれが許されるなら、上演分析と歴史記述の間の違いは人称使用以外にあるのかしら。</脱線>

これら二つの例を極にして、諸芸術をそのなかで上演することが演劇の特徴だとフィッシャー・リヒテは主張する。でも、ケージのイヴェントは、語の有益などんな意味で「演劇」なんだろう?それを「演劇」と呼ぶことも、またやや極端だが、「パフォーマンス」と呼ぶことも、ラウシェンバーグの寄与を矮小化するだろう。スライド映像は彼が自ら投射する必要はなかったし、オルセンとリチャーズだってスピーカーでも構わない。それはハプニングとかイヴェントとか言うのが一番相応しいのではないだろうか。

もちろん、彼女は演劇概念をここで拡張し、インターアートとして理解しているのだけれど、そのとき、演劇という比喩は過ち導くものになる。全てのインターアートが演劇ではないからだ。特定の場所、例えば公園の木立に置かれた自然木のインスタレーションの中に腰掛けてサウンドアートを聞くとき、私たちはインターアートの経験をしている(e.g. Janet Cardiff & George Bures Miller for a thousand years (2012))。しかし、それはパフォーマーとの肉体の共在を含まないので演劇ではないしパフォーマンスでも多分ないだろう。「演劇」を学ぶとき、演劇のインターアート性を理解することは、とりわけ現代においては重要だ。でもそれは他の芸術でも変わらない。インターアートの経験を理解するためには、「演劇」概念へのこだわりはむしろ邪魔になるのではないか。それが演劇的である場合にすら、それを演劇としてとらえることは有意義ではないだろう。

だから、ボイスのあれこれのアクションが上演概念の定義に合致するかしないかの議論(243)はボイスの理解にとっては重要ではない。また、1990年代以後の造形芸術に上演としての性格を持つものが増えたかどうかも、多くの場合重要ではない。これらの作品の多くにおいて重要なのは上演と共有するある性質、つまりそれが物質的な痕跡を残さない、というコンセプチュアルな性質なのであって、肉体の共在を前提とする上演的性質ではない。彼女の挙げている例はそれでも、とても面白いので書き写す。ティノ・セーガルの作品についてだ。
来場者が一人あるいは何人かで空間に足を踏み入れると、さっそく予めそこにいた美術館の守衛か、その瞬間に初めてこの空間に現れた解釈者が、活動し始める。彼らは、「これはとても現代的です」(ヴェネツィア・ビエンナーレ、2005年)あるいは「あのオブジェのこのオブジェ」(ケルン、2004年あるいはロンドン2004/5年)といった文を反復し、その際、極めて多様な動作を行なった。(247-8)
この箇所に驚いたのは横浜トリエンナーレ2011年で、同じような経験をしたからだ。本会場の通路脇に大きな金属製の白っぽいパネルが展示されていて、その前で職員の女性がずっと「これは芸術作品でございますのでお触れにならないようにお願いいたします」と繰り返し注意していて、ややこしい現代芸術の展覧会の担当者も大変だなぁ、と苦笑したのだけれど、それも含めて作品だとしたら……思い出すほど、そう考える方が理にかなっているような気がする。1951年のラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング」からまる六十年、何の工夫もなく同じようなことをやる筈はないわな。

こうした話題になるとはやりの「インターメディア」とか「ハイブリッド性」とかの話になるけれど、そこでレッシングの『ラオコーン』を紐解くのがやはりドイツの人だ。わりと当たり前のことを言っているのでパス。フィッシャー・リヒテにとって、「インターメディア」は重要だがハイブリッド概念は「例えば統一性の概念への対抗概念として理解されるなら」有意義だが、「ハイブリッドの概念の利用はしばしば存在論化されるという危険をはらんでいる」(259)。まあそうですね。

<脱線>「グループのメンバーは、『イリアス』の1800行の韻文を、交代で中断なく22時間以内に朗読した」一桁誤記。18000行</脱線>

2013年5月15日水曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(3)

フィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』第三部


第三部は三つの章からなる。


第七章「上演における諸文化の編み合わせ」
第八章「諸芸術の上演」
第九章「文化上演」

さて、演劇学は上演の学である以上、「非西洋文化における上演、他の諸芸術の 上演、他ジャンルの文化上演」(183)を扱わねばならない。第三部はそれらの問題を扱う。

第七章では、異なった文化圏に属する上演が与える影響について、フィッシャー・リヒテは「編み合わせ」の概念を用いて、明治時代に日本演劇が、例えば川上音二郎一座の欧州公演でドイツやフランスの演劇に与えた影響、またヨーロッパの近代劇が日本に与えた影響を例にして、それらを「文化の編み合わせ」という概念によって説明しようとする。
二〇世紀初頭には、ほとんど未知の文化圏の演劇的要素を摂取するという、一九世紀まで続いてきた[交流の]形式をはるかに超える発展が始まった。新たな輸送技術によって芸術家個人だけでなく一座全体が自分たちの演出を、全く異質でそれまでおよそ知ることのなかった文化圏の観客に披露できるようになり、その結果、彼らの演出は遥か彼方の異文化圏の観客にとっても、俳優が肉体的に演じるのを直に経験できるものとなった。
彼女がここで取り上げるのは、(1)川上音二郎一座の欧州公演(1900-02)、(2)ラインハルト、メイエルホリドなど、ヨーロッパの近代演劇における日本や中国の演劇形式の取り入れ(花道、黒子、衣装の約束事など)、(3)日本の演劇の近代化としての新劇である。これらの例は、二つの問題を明らかにするだろう。第一は、「編みあわせのプロセスを調べる際、日本学の専門知識がどの程度必要か、あるいは日本演劇の専門家—日本学研究者あるいは日本の演劇学者—との共同作用がどの程度必要か」(204)ということであり、第二は、これらの実例で問題になる「近代演劇」とは何なのか、ということだ。前者に関しては、(2)以外は共同や専門知識が必要だよね、って話になり、後者に関しては近代化≠西洋化とされる。この時代の「編み合わせ」は「それぞれ異なる仕方で理解され経過も様々な近代化のプロセスと密接に関連しているため、それに対応しながら研究を行うには、それぞれの根本にある近代概念と近代化概念を明らかにすることが必要不可欠なのである」(208)。<脱線>訳者割り注で「「現代演劇」が通常は第二次世界大戦頃から後の演劇を、「近代演劇」はそれ以前、一九世紀末にまで遡る範囲を示し、一九一〇—三〇年代は境界期と考えられる。ところがこれらのすべてを欧米語ではModernes Theaterと称することができる」(200)とあるのは、私には新しい知識だ。本当に、七〇年以上も前の演劇のことを、今「現代演劇」って言って良いのだろうか?また、今の演劇のことをModernes Theaterって言って良いのだろうか? 演劇学の人たちのこのあたりの歴史意識は私には面白い。</脱線> 文化の編み合わせが重要になるもう一つの領域は一九七〇年代以降の上演で、ここでは「とりわけ次の二つのファクターが決定的となっている。一つは旧植民地の独立であり、もう一つは新たなコミュニケーション・テクノロジーの普及である」(209)。 これに関しても、三つの問題圏を彼女は指摘する。(1)客演と国際フェスティヴァルから発生する諸問題。(2)ある演劇文化から他の演劇文化へ諸要素を移し替えることから発生する諸問題。(3)異なる文化背景を持つ芸術家たちによる共同作業から発生する諸問題。

(1)に大きな問題圏があると考えるのは、彼女の上演についてのとらえ方による。「上演が演者と観客との肉体の共在、両者の出会いと相互作用から生まれ、それ故に上演は毎回、一回限りで反復不可能であるとすれば、そこから生まれる結果として、客演やフェスティヴァルごとに予見不可能性の度合いが高まり、全く同一の演出ないしは振付が、かなり大きく異なる新上演を生み出すことになるからである」(210)。ここに絵画との大きな違いがある。絵はどこで見てもその物質性は同じだが、上演の物質性には「観客の反応」も入ってくるし、こうした反応は俳優/パフォーマー/ダンサーに影響を及ぼすので、毎回異なる上演が生まれることになる」(210)。例えば一つのツアーが異なった文化圏で異なった受け取られ方をしつつも喝采を浴びている場合、「それぞれの文化圏の専門家が研究に加わらない状況で、上演分析の手法によってこれについてどの程度適切に考慮できるのか」(210)と。

それは図式が悪いとしか……

「毎回異なる上演」は別に異文化での上演に限らないし……
上演分析の手法はそもそも一人称現象学なんだから別のその場その場で研究者が観てやれば良いんじゃない……
「上演」について観客反応を内在的なものとしてとらえ、たとえば映画についてはそうとらえないことが問題。

「イングロリアス・バスターズ」をドイツの田舎町で上映する場合と、東京のシネコンでやる場合とでは、(1) 物質的同一性はない(スクリーンの大きさ、輝度、映像の質の高さは異なる)。(2) 観客反応は異なる(Nazisploitationへの反感はドイツの方が強いだろう)。それゆえ、両者を別のもの、として扱うべきだろうか。両者を別のものとしなければ分からない問題圏はあるだろう(なぜこの作品はドイツでは受け入れられなかったのか?)。しかし映画学はそれを「同一の作品」として扱うことが出来る。上演の場合彼女のように「別のもの」であるという主張が説得力を持つように見えるのは、観客→演者へのフィードバックが想定されている(し実際に存在している)からだ。しかしこの議論では、フィードバックは二つの上演の「物質的同一性」の不在を示すという役割しか持っておらず、その不在は映画の場合でも同じだ。現象的経験は映画の場合でも異なる。だから、図式が悪い。

(2) ある演劇文化から他の演劇文化へ諸要素を移し替えることはしばしばIntercultural Theater(異文化間演劇)の名前で呼ばれていた。これは(a)「異文化」のそれぞれが「完結した一貫性を形成している」ことを暗示していることと、(b)非西洋的演劇の要素を西洋演劇に移植する場合と、その逆の場合が非対称的に(前者は良いもので後者は悪いもの)とらえられることのゆえに好ましくない。そこに前提されている、「自」と「異」のアイデンティティの対立はもはや存在していないのだ。面白いのは、「異」を吸収することで「これまで固有であったものが根本的な変化を被り、新たな芸術的アイデンティティが生まれ得る」(215-16)ことである。

(3)インターナショナルなアーティストたちのユートピア的共同体の可能性について彼女はかなり肯定的だ。まあそうなんでしょ。<脱線>ラルフ・レモンの地理学三部作(ダンス)についての言及で「参加アーティスト間の文化的相違が止揚されることはなく、むしろ相互の尊重と理解を特徴とする新たな調和的共存を生み出すために生産的に用いられた」(216)は「止揚」って訳しちゃ駄目じゃん。「捨て去ることなく」でしょ。</脱線>でも、このインターナショナルな編み込みの話題になると、やっぱりグローバリズムとか文化帝国主義とか文化的簒奪の話を避けて通れない。というか、演劇学の人はこの手の話が好き。一言で言うと、ローカル化は良いけれどグローバル化は文化帝国主義で文化的簒奪だ、と。それでどれがローカル化でどれがグローバル化なのかの分類。チェン・シージェンが「国立京劇院」で行った『バッカイ』はアメリカの資金がたっぷりで、京劇要素を用いたものの京劇の形式を変更してギリシア劇の復元に努めたので悪いグローバル化。ルォ・チンリンが河北省の河北子様式で制作した『メデイア』は良いローカル化らしい。上演もデルフォイだし、アメリカの金はそんなに使われていなかったみたいだし。資金源を捜せ(とは彼女は言わない)。「演劇はまずはローカルでなければならず、この前提のもとでのみ真に国際的になり得る、というハイナー・ミュラーの発言がいかに的を射ているかが、改めて証明される」(230)らしい。

私の考えでは、文化帝国主義や文化的簒奪について声高に語る多くの文化人はその文化の内部で抑圧者だ。ロックが嫌いなのは金持ちの年寄りに決まっている。そもそも演劇はPC的正当性の中でお高くとまっている高級文化ではない。何であれ取れるものは取るところから出発している。グローバル化であろうがローカル化であろうが、そこでポリフォニーが実現していることが重要だ。

ちょっと怒りモードになったので、続きは日を変えて。

2013年5月14日火曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(2)

フィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』だが、第二部に入って急にこちらのテンションが下がった。

さて、その第二部だが、「研究領域・理論・方法」と題され、三つの章からなる。
第四章「上演研究」
第五章「演劇史研究」
第六章「理論形成」

第四章は、(1) 理論的予備考察、(2)分析の実践、(3)上演と戯曲の三つのパートに分かれる。
興味深いのは「理論的予備考察」だ。
さて、フィッシャー・リヒテにとって、演劇学の対象は上演であり、(演劇学の対象としての)上演とは、観客と演者の共在、束の間性、意味生成、出来事性によって特徴付けられる。
だから、上演分析も、そのようなものとしての上演の分析だ、ということになる。演劇学研究者は実際に見た舞台について分析を行わねばならない。ビデオによる分析は「演劇史研究」に属する。
これは、「演劇学研究者たるものこうあるべき」という学生に対する説教(規範的言明)としては有意義だろう。しかし、「上演分析」を「演劇史研究」から区別する条件の記述にはならない。その理由はあとで書く。まずは彼女の主張を追って行こう。

(1) 理論的予備考察
上演分析はテクスト分析と異なり、対象への複数のアクセスを可能としない。それは一度限りの束の間の出来事である。また、対象にアクセスしながらの分析も不可能である。そうすることで上演の重要だったかもしれない別の側面を見逃してしまうかもしれないからだ。分析は上演が終わって初めて可能であると彼女は言う。

だから、分析は「上演の間に知覚したものについての、その人の想起(Erinnerung)から出発しなければならない」(91)。さて、上演の感覚的対象の全てを同等に知覚することは出来ず、選択や不注意は不可避的に生じ、知覚が主観的であることは分析の根本条件だとされる。
ともあれ、上演が終わった後で思い出すことが大事だ。二種類の記憶、舞台空間の細部についてのエピソード記憶と言語的な意味についての意味記憶を区別すべきだ。意味記憶は、台詞だけではなく、分析者が知覚について行った「翻訳」(赤いとか急だとか)も含まれる。これらは支え合うけれど、いずれにせよ記憶は当てにならない。それをどう補うのか。「何度も見に行く」「直後にメモを取る」「ヴィデオ録画(を見る)」などの方法があるが、フィッシャー・リヒテのお薦めは、「直後にメモ」だ。ヴィデオは「具体的な箇所の想起のためにはとても重要で役に立つ」が、「別の面から見るとヴィデオ録画は役に立たなかったり、あるいはかえってマイナスの働きをしたりもする」(96)。空間的な記憶の助けにはならず、演者と観客のエネルギーの流れは伝わらない。
さらに、一般にヴィデオ録画は、分析者の記憶を助けて再活性化するというよりも、むしろ記憶を上書きしてしまい、そのため上演を想起させるどころかその忘却に貢献する危険がある。(97)
クロスカッティングとかクローズアップとか、観客には不可能なカメラ移動のことを彼女は考えている。そう言えば同じような戯言ことを、昔西洋比較演劇研究会で大まじめに語っていた研究者(複数)がいた。 NHKの「芸術劇場」がカメラワークするのが気にくわないんだったっけ。どこまで表象=再現の形而上学に浸っているのかと小一時間問い詰め…。
勿論、フィッシャー・リヒテはこれらの手段が補助手段として有効だということは認める。しかしそれはあくまでも補助手段だ。
上演分析において、上演中にノートを取ること、記憶に基づく記録の作成、あるいはヴィデオ録画といった手段を用いるのであれば、そのことは、批評や観客の証言や、ヴィデオ・クリップに基づいて、上演を何らかの問題設定の下で研究するというやり方、つまり私が演劇史研究的と名付けた研究法とどこが違うのか、(中略)上演分析の場合の補助手段は、上演中に知覚に留まったもの、体験したものを記憶に呼び起こすのに対して、演劇史研究の場合に問題になるのは自分の記憶ではなく、上演についての記録なのである。(略)このことは多くの問題設定を申し分なく満たすかも知れないが、それにもかかわらず上演分析の資格は持たない。というのも、上演分析は常に、上演中における自分の知覚と経験に発するものだからである。(97-8)
私の思うに、この主張が整合的なのは、上演分析が一人称現象学を含まねばならないという主張を含意している場合に留まる。しかし一人称現象学は自己分析であって「上演分析」ではない。分析の中に含まれた任意の一人称文(ないし一人称を目的語等に取る文。以下この意味で用いる)は、多くの場合私についての言及であって、上演についての言及ではない。上演分析が一人称現象学を含むべきだという主張は反直感的だ。参与観察文を含むことはあるテクストが上演分析であるための必要条件でも十分条件でもない。
もし、一人称文を含む必要がないとしたら、つまり「上演中における自分の知覚と経験に発する」にせよ三人称文で分析が進むとしたら、形式上、それを、ヴィデオなどに基づく、あるいは、ヴィデオなどによって喚起された「知覚と経験」に基づく「分析」文から区別することは必ずしも可能ではなくなる。つまり、私たちは、研究結果から、それが上演分析なのか演劇史研究なのかを区別することが必ずしも出来なくなる。だからこの主張は、学生への心構えの説教(規範命題)以上のものではあり得ない。

で、この本の性格がマジに学生指導の手引き、だと分かって、私のテンションはとても下がった。

ともあれ、知覚と想起に続く第三のプロセスが「言語化」である。エピソード記憶を言語化することは難しいし、意味記憶も言語化において歪曲される。言語からくる限界は乗りこえられない。
あらゆる言語的記述や解釈はテクストの生産につながるが、その際固有の規則に従うため、テクストの生産過程が自立化し、出発点だった上演中の知覚の想起からどんどん離れてしまいかねない。分析プロセスの到着点は、独自のテクストの生産なのである。これは上演分析の一見矛盾したもう一つの条件であり、それには十分考慮を払わねばならない。(99)

(2) 分析の実践
現象学的アプローチと記号論的アプローチがある。これはとりあえずは現前と意味とに対応。
現象学的アプローチに際しては 、観客が「上演によって初めて経験が書き込まれていく白紙の存在ではない」(103)ことに注意が必要。知覚は主観的だ。この主観性は恣意性ではない。
記号論的アプローチに関して、彼女は、演劇の記号として可能なものを「音響」「音楽」「言語」「準言語」という聴覚的記号と、「表情」「身振り」「近接学的記号」「仮面」「髪型」「衣装」「空間コンセプト」「舞台装置」「小道具」「照明」という視覚的記号に分けるが、化粧は仮面に入れるとして、嗅覚・味覚・触覚がないことは他の箇所に比べると意外。特に「知覚されるものはすべて記号として解釈される」(104)のだからこの欠落は目立つ。
さて、彼女は、記号論的分析は、観賞経験を「薄める」可能性があると指摘する。それは演出意図の研究に堕してしまう危険があると。だから記号論的分析においても、観客反応を考慮すべきだ。
演出を、そのタイトルの元となっている戯曲(略)の特定の解釈として「読む」ことにこだわる人は、上演のメディア的および物質的条件を見誤っているだけではない。そういう人はテクストと上演のあいだに特定の関係があることを当然と考えているが、そのような関係には問題がある。(108)
まあ、それはその通り。上演と戯曲の関係について、上演分析の実例がなされた後、補足がなされる。この補足は常識的なもの(褒めてます)。上演とテクストの関係については、テクストの解釈とみなすことが可能な上演と、そうでない上演とに分けるというコンサバな立場(たくさん)から、いかなる上演もテクストの解釈ではないというラジカルな立場(J.R. Hamilton: The Art of Theater (2007))まで分かれるだろうが、フィッシャー・リヒテは後者に近い。
(『トレイン・スポッティング』を扱った分析実例については、スマートだと思うが、この場合においても、一人称文は分析結果にとってそれを用いなければならないというほどのものではなく、かつそれを取り去ったときに、映像資料および言語資料によっては書き得ないもの、とは思われなかった。ここから一人称現象学を取り除いて三人称現象学で置き換えたときに、分析の価値が下がるとは思えなかったのだ。)

第五章は、演劇史研究についてで、この問題に関して、私はフィッシャー・リヒテのような大研究者について何か言えるほどの見識がないので、パス。

第六章は理論形成と題され、演劇研究における理論の重要性を論じている。
第三章に関する私の疑問についての重要な主張がここにある。
第三章では上演の概念を定義するに当たってかなり用心深く、特殊なメディア的条件(肉体の共在)、特別な物質的性質(束の間性)、特別の意味生産の様態(意味の創発)、なされうる一種の美的経験(リミナリティの経験)によって基礎付けた。従ってこの定義に合う現象は、すべて上演として理解されるべきである。このような定義に反対して、現象Xや現象Yが、例えば肉体の共在の条件は満たしていないが、それでもやはり上演である、などと述べることは全く無意味だと思われる。 なぜなら定義は、概念が理解可能にしようとしている対象の「本質」を捉えるのではなく、当面の理論の文脈において重要な側面を捉えるものだからだ。
これも些末的に真だ。それは「芸術」を「再現」として定義したり、「美的経験をもたらす人工物」として定義したりすることが些末的に真であるのと同様だ。一貫性を持っているけれど、その定義は「対象の重要な側面を見落としている」と批判を変えるだけで瓦解する。私たちは、芸術を「再現」として定義することは出来る。じっさい多くの芸術作品は、現代においても「再現」だ。Jasper Johnsは星条旗を「再現」したし、ウォーホールはブリロの箱を「再現」した。Sherrie LevineはWalker Evansの写真をそっくりに「再現」した。芸術を「再現」として定義するのに反対するのは、非再現的な作品を芸術領域から追い出すことが私たちの芸術理解を歪めるということと、「再現」的ではあるがそれを「再現」として理解することが作品の理解を歪める多くの重要な作品があることが理由になるだろう。 「上演」を共在によって定義することに反対する人は、単に「共在」が不在の上演があると言っているのではなく、それを含まないことは共在であるような「上演」の理解をも歪めることになるといっているのである。